2016年10月22日土曜日

人間の心も体も「生きるための道具」 一番尊いのは霊魂

私は、かって、この中村天風の本で、「九死に一生を得た」ことがある。
想えば、不思議な出会いであった。

2016年10月9日日曜日

生来、気まぐれな性格は、そう簡単には直らない

長い、中断が続いている。
これでは「日々彩々」などと、とても言えたギリではない。

2016年10月8日土曜日

外務省、『ベルサイユ講和条約』とポ宣言第を参考に講和の内容を検討

<児島 襄『講和条約』第1巻>
ポツダム宣言は、日本が降伏条件を実行するまでは占領をつづける旨を規定する。

2016年10月7日金曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』明治維新の奇蹟、高島秋帆の登場(大砲、砲弾の独自製造)

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
アヘン戦争にまつわる中国とイギリスについての記述は、省略して、「黒船来航」に接近していきますーー

ポツダム宣言第8項:日本の主権は本州、北海道、九州及四国並びに吾らの決定する諸小島に局限する

<児島 襄『講和条約』第1巻>
外務省条約局第2課は、「平和条約締結の方式及締結時期に関する考察」の覚書をまとめた。

人間は天の物であるから、必ず天職がある

人間はだれでも次のことを反省し考察してみる必要がある。

「天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。

2016年10月6日木曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』インド産アヘンで、中国の銀を収奪する英国

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>

ここで、視線を当時の中国(日本と同じように「鎖国」状態であった)に移すとー

外務省、「平和条約問題研究幹事会」を組織する

<児島 襄『講和条約』第1巻>
昭和20年11月21日、外務省に「平和条約問題研究幹事会」が組織されたーー 
平和条約すなわち講和条約について

大佛次郎著『天皇の世紀』英国が中国へ進出 原因は中国茶需要の急増

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
話は、一転して、中国(当時は、シナ)が舞台にーー
中国は当事、満州朝廷の清国だったが、

「統制」撤廃で各都市の市場に魚、野菜があふれた

<児島 襄『講和条約』第1巻>
当事、新聞は「餓死者」について報じていました。5,6人というような人数ではありません。3ケタ台の数字でした。

2016年10月5日水曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』ロシア全権大使レザノフが通商を求めて長崎に来る

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
さて、フェートン号は去りましたが、この事件の責をとり、松平図書守は、切腹をして果てますーー
フェートン号より4年前、文化元年9月にこの港にロシアの軍艦がはいってきたことが

2016年10月4日火曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』フェートン号、水と食料を得て逃走

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
池のように静かな湾を囲んで、何が起こるかも知れぬ無気味な時間が過ぎて行く。たしかに200年平和に過ごしてきた市民には

「縄文時代的」食事と、過熱する買い出し生活

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
失業者が増えた。
生活苦のためだけではない。

2016年10月1日土曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』太平の世にある人びとの目を覚まさせた、フェートン号事件

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>  舞台は長崎の出島に移ります──
窓は小さいが、ここで受けている風は、いつも新鮮で、遠く大阪、江戸、もっと奥の仙台あたりにまで通っていた。
禁断だった海外の知識に、それほど渇いていた事実が人に在る。


2016年9月30日金曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』渡辺崋山は自殺、高野長英は逃亡(改題)

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
清廉潔白で篤実な彼の人柄を知っている友人の全部の者が、自分たちの身を危うくするのを知りながら、崋山を救い出そうと骨を折った。多くの学者や画家の友人である。

2016年9月29日木曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』渡辺崋山と高野長英が投獄される(改題)

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
天保8年(1837)にアメリカ船モリソン号が日本人の漂流民を乗せて渡来すると知らせがあった時に、幕府は鎖国の御国法通り武力でこれを撃退するように決定した。

食糧難と、肉類を飽食する巣鴨刑務所の戦犯容疑者

<児島 襄『講和条約』第1巻>

昭和20年秋の日本国民は、飢えていた。
数少ない例外は、米軍刑務所に収容された戦争犯罪人容疑者であった。

2016年9月28日水曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』渡辺崋山や高野長英の受難(改題)

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>

高橋作左衛門は御書物奉行で天文台長である。入牢中に病死した。「お旗本の身分有るまじき行い、不届きによって、存命であれば死罪にする者である」(=超訳)と塩漬けになっていた死体に宣告した。

G・アチソン顧問→保守的で用心深い階層を代表する政権

<児島『講和条約』第1巻>
マッカーサー元帥は、日本民主化のためには次の五項目の実践が必須である、と、幣原首相に告げた。

大佛次郎著『天皇の世紀』シーボルトが来日し、日本に新しい学問をもたらす

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
シーボルト自身、日本研究の使命を帯びていたのだが、外科学、植物学、天文学、地理学などの広範囲にわたって教えてもよいと日本側に申し出た。

2016年9月27日火曜日

総司令部  「政治、信条並びに民権の自由に対する制限の撤廃」を通達

<児島 襄『講和条約』第1巻>
総司令部も、東久邇内閣に不満であった。
表向きには、日本は平和国家になる、民主国家に代わる、という。

大佛次郎著『天皇の世紀』吉田松陰 ペリーの軍艦で渡米を企てる

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
ーー話は、「物語」の最初に戻りますーー
旅嫌いの日本人が幕末近くになると、外に出かけるようになる。生まれた家で暮らすだけの理由を失っていたし、経済的にも家においては養いきれぬ人員が出た。

2016年9月26日月曜日

天皇の上に君臨する、マッカーサー元帥

<児島 襄『講和条約』 第1巻>

新外相には、67歳の元駐英大使吉田茂が就任した。
貴族趣味の硬骨外交官として知られ、重光前外相の9歳上、総司令部D・マッカーサー元帥よりも2歳年長である。

2016年9月25日日曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』長崎での鼓笛による教練を、鹿児島藩が採用する

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
「下士官以下の乗り組み員には、別に食事の用意がされてあって、卓上には食べ物が山ほど積まれてあった。この宴会で、酒が水のごとくふんだんに振る舞われたが、何の不祥事も起こらなかったのは

米国民よ、真珠湾攻撃を忘れて下さらないか

<児島 襄『講和条約』第1巻>

米紙「ニューヨーク・タイムス」特派員F・クルックホーンが天皇取材を希望していると、告げた──

ついては、その希望をかなえ、天皇に真珠湾攻撃を知らなかったと語ってもらい、米国につたえさせてはどうか・・・。

2016年9月24日土曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』鹿児島市民は、着飾って静かに一行を迎えた

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
二か月後に、カッテンディーケらを乗せて咸臨丸は再び山川港に現れ、同じ日の夕方には鹿児島に入港した。島津斉彬が越前藩主松平春嶽に知らせた書状にも、「山川より城下まで十三里の海上を一時半(3時間)にて参り候」

2016年9月23日金曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』カ中佐、薩摩の近代的設備、技術の高さに驚嘆

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>

翌日、斉彬はこの事件を聞いて大いに驚き、家中の不心得を戒めて自身迎えに出て、一行を藩邸に案内した。カッテンディーケの一行は、溶鉱炉を備え付けた鋳砲工場や製銃工場、硝子工場、電信機製作所

戦争犯罪人が、日本の戦争指導の責任者であるなら・・・

『講和条約』 Ⅰ
重光外相は手記している。

「上に立つ指導者、政治家は、戦争責任に問われて敵の手に身の及ばんことを恐れ、戦争責任の転嫁に是汲々たる有様である。

2016年9月22日木曜日

鬼畜と教えこまれていた米軍は陽気でスマートだった

『講和条約ー戦後日米関係の起点ー』 第一巻

厚木飛行場に到着した第8軍司令官R・アイケルバーガー中将は、日本軍機がすべてプロペラをはずし、出迎える日本軍将校がいずれも丸腰姿であるのを見て、目をみはった。

日本人は天皇が自決するまで戦うだろう

 児島 襄(こじま のぼる)『講和条約ー戦後日米関係の起点ー』 第1巻

米軍も、日本人を恐れていた。

…ほとんどの米国人にとっては、日本と日本人は完全に未知の国、まったくの異人種、異教徒、異文化の民でしかない。

大佛次郎著『天皇の世紀』カ中佐、乱暴な出迎えにも、悪意を抱かず!

大佛次郎『天皇の世紀』 1
さて咸臨丸のオランダ人が鹿児島に上陸したときに、当然に外国船らしい見なれぬ船が入ってきたので、城下の町の者があやしんで、不穏な騒ぎを起こした。藩主が招いたもの

2016年9月21日水曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』 鹿児島は我々(オランダ人)が想像していたような小さな田舎町ではなかった

『天皇の世紀』 1

『12時、船は藩侯の海水浴場となっている海岸に儲けられた天幕の前に来た。そのとき藩侯は我々に、ぜひ一度鹿児島の砲台や、いろいろの工場を仔細に視察し、

2016年9月20日火曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』咸臨丸、勝や榎本を乗せ長崎から鹿児島に入る

『天皇の世紀』 1 大佛次郎 p.428/429

鹿児島藩は江戸から地理的に最も遠く閉鎖された国で、政治的にも幕府の勢力に対し独立した色彩の強い土地であった。関ヶ原の戦いに敗れて以来、中央に服従しているが

2016年7月15日金曜日

真珠湾は忘れて下さらないか。日本人も原爆投下を忘れよう

『米国民よ。どうか真珠湾は忘れて下さらないか。われわれ日本人も原子爆弾による惨害を忘れよう。そして、全く新しい平和国家として出発しよう。

『(憲法の)前文を含めて、全てを変えたい』=安倍首相

安倍首相は参院選で、自らの経済政策「アベノミクス」の前進か後退かを最大の争点に掲げた。そして、憲法改正については「選挙で争点とすることは必ずしも必要はない」

2016年7月9日土曜日

人は「自分のものである」と執着した物のために苦しむ

『ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

心の解脱をし、智慧の解脱をしたものは、輪廻転生が止む

仏教は、輪廻転生を説く。それから逃れるために厳しい修行をする。その結果、解脱を得る。その解脱を得たものは、輪廻転生が止み、永遠の眠りにつく。

『判決の一部を取り消してほしい。はなはだ変な判決だ』

裁判所が出した判決について、感想を述べることは、自由だ。しかし、立法府である国会に席を置く議員が、「判決を取り消せ」と言うのは、いかがなものか。

2016年7月8日金曜日

口ばかりで何もしない批評家でいるよりは、実行の人となれ

なんでも先に延ばすことは、実行を避ける口実になる。実行しない人間というのは、得てして、批評家である場合が多い。

『稼ぐことのできない老人は、税金を使う話をする資格がない』

渡辺美智雄という代議士は、「失言、暴言のデパート」のような人物である。この暴言は、渡辺が通産相という要職にあった時のものだ。

2016年7月7日木曜日

『自民党が創価学会の脱税を、もみ消した』

驚愕の「発言」であった。天下の自民党が、「脱税のもみ消し」を手伝った、と言うのである。

クリーンなだけで政治がやれるのなら、科学者か宗教家がやればいい

政治家とお金の問題は、あとをたたない。石川五右衛門ではないが、「浜の真砂と、政治家の悪事の種」は尽きない。

2016年7月6日水曜日

人は働けなくなったら死んでもらうと経済的に効率がいい

これは「言いたい放題」というようなレベルの発言ではない。政治家としても、人間としても「万死に価する」暴言である。
『人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる。経済的に言えば、一番効率がいい』(昭61年 )

『善い言葉。好ましい言葉。正しいこと、真実を語れ』

善いことばを語れ。正しい理(ことわり)を語れ。好ましいことばを語れ。真実を語れ。(「スッタニパータ」)

自分で納得できる自分に作りかえよう

人が生活する中において、ゴミヤホコリはっきものである。
掃いても掃いても、拭いても拭いても、ゴミヤホコリは後から後から、たまる。

2016年7月3日日曜日

『私を軍国主義者と呼びたいなら、どうぞ』=安倍首相

この発言は、だれかとのやり取りの中で行われたものではない。安倍首相が、自ら発したのである。首相の強きの発言は今に始まったことではないが、かって、米国のシンクタンクにおいて、自らを「軍国主義者」と呼んでもらっても構わない、

2016年7月2日土曜日

「人を許す」ことを知らない人は、幸福な人生をおくれない

ウエイン・ダイア―は、「生き生きとした人生をおくるためには、小さな枠組みに縛られてはならない」と言う。それには、「人を許す」ということが分かっていなければならないと、述べる。

「いい事ばかり言う人」に投票する人は、知能指数が低い

これほどまでに、露骨に有権者や国民をバカにした暴言は、そう多くはない。仲間内ばかりがいる席になると、気がゆるむのか、暴言を吐くことが多い。この渡辺美智雄氏の場合

2016年7月1日金曜日

投票に行かずに、そのまま『寝てしまってくれればいい』

政治家のABC。政治家の「A呆れたい B暴言 C失言」の数々を取り上げていきます。第1回目は、時の人、森・元首相の、この発言から始めます。

2016年6月30日木曜日

「よろしくお願いします」の連呼は、何とかならないのか

参議院選挙がたけなわである。だが、あの「よろしくお願いします」の連呼は、いい加減やめてもらいたい。ただただ、ウルサイだけのことだ。私は、有権者を「バカにしている」と思う。

2016年6月29日水曜日

すぎたるは及ばざるが如し「ベストを尽くす対象を選択せよ」

何故、何事も申し分なくやらなければならないのだろうか。あなたに誰かが点数をつけているのだろうか、とウエイン・ダイアーは言う。彼は、すべてにベストを尽くす必要はないとのべ、次のように書いている。

愛国心から「軍国主義、特攻隊」を連想するのは無理もない

『自分たちの生まれ育った土地、つまりは国を愛するとは人間として極めて自然なことであり、決して非難されるようなことではない。愛国心すなわち帝国主義そして軍国主義、

2016年6月28日火曜日

退屈するか、しないかは自分の心がけひとつ

ウエイン・ダイアーは、退屈ということについて、次のように言う。
『人生というのは決して退屈なものではないが、好んで退屈している人間もいるようだ。

自分に自信があれば、他人による「証明」は必要がない

『嫉妬心をなくす__。嫉妬はみずからをおとしめる行為である。自分を他人と比較したり、自分の方が愛されていないと思ったりすれば、

ローマは一日にして成らず「自己鍛練に困難はつきもの」

誰も一夜にして肉体を鍛えようなどとは思わないだろう。それなのに、こと精神に関しては、すぐにも効果があらわれるのが当然と考える人が多いようだ。

2016年6月27日月曜日

自分ではない、誰か他の人間の思惑で生きる人生を選ぶな

『問題は自分の感情をコントロールできるかどうかではなく、その意思があるかどうかなのだ。そういう選択をするまでに必要な忍耐力はたいへんなものだ。

頭とハサミは、使いようで良く切れる

『不幸よりも幸福を選ぶのはその人の自由である。それと同じように、日常生活の諸々のできごとの中で自滅的な行為よりも自己実現にいたる行為を選ぶのも自由である。…

どんな習慣であれ「産まれながらの習慣」というものはない

『現在身についている習慣は、これまでの生活で次第に強化され、習得されてきたものである。

2016年6月26日日曜日

「食べて、寝て、起きての生活」を繰り返す人生で満足なのか

『天風哲学の根本的な考え方は、「子の世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。この世は、本質的に楽しい、嬉しい、そして調和した美しい世界なのである」

自分のためだけか?『自己向上は、自他の幸福を追い求めるにある』

『自分だけ丈夫になって、もっとうまいものを食べようとか、もっといい着物を着ようとか、もっと事業が成功したら、うんと別荘でも造って、いろんな遊びをしてみよう、なんて考えを持ったら、とんでもないことことだ。


修養ばかりでなく、何を志すときでも、自己向上を目的とする。そして、その目的とする自己向上は、ただ単に自分の幸福だけのためにするんじゃない。

自他の幸福のためにするんだ、という広い意味を忘れてはいけない。そうしてはじめて、自分の勉強にも努力にも、非常なぞくぞくするようなカが湧いてくるのだ。(中村天風『運命を拓く』)



年をとろうと、いくつであろうと、年齢によって創造意欲というものを上げたり下げたりするようなことがあつてはいけない、と天風は教える。

そういう考え方をする人は、自分の人生の価値を、全然認識していない人である。人の本質は、もともと年齢とは関係がない。

人間が年齢を考え、うんぬんするということは滑稽極まる話であり、余命があといくばくもないから、今更それをしたって仕様がない。そういう考え方を持っていたのでは、なおさら仕様がない、と言う。

人間は時が来れば、一度は死ぬけども、しかし、生きている間は死んでいないのだから、生きていれば歳なんか関係ない。

どんな時代がこようと、どんなに歳をとろうと、我々は自然の法則の中で生きている。花が育っていくように、人も常に伸びよう伸びようとする力を備えている。

現在、病のある人、あるいは運命のよくない人も、けっして、その病や、運命 に、心を奪いさられてはいけない。むしろ、「心を強く持つ」ことで乗り越えていかなければならない。__


さらに天風は、自己向上を正しく念願せよ。そうしないで、仕事なり、運命なりを向上させようとする事は、無理なことであると言う。

ただたんに、自分だけのために努力するというような、狭い料簡を持つな、と説いている。

(2016年6月26日)

議員を無視して、その秘書が自分勝手に振る舞えるはずがない

『「秘書が、秘書が」とは疑惑を投げ掛けられた国会議員が、必ずといっていいほどくちにする永田町の常套句といっていい。「金を受け取ったのは秘書であり、議員である自分は一切関知していない」というのが、そういう立場に置かれた国会議員たちの取りあえずの弁解である。

…議員によっては、金はすべて秘書が扱い、秘書の手元でいろいろに使われてしまったもので、自分は何も知らなかったと語る者すらいる。使用者である議員を無視して、自分勝手に振る舞う秘書が存在するとは全く信じられない話である。

・・・しかるに議員と秘書の関係は全く別で、秘書が何をやっているか議員は一切知らないということで通っており、議員は「秘書が、秘書が」の一点張りで疑惑を振り払おうとしている。』(佐藤道夫『「参議院」未だ「良識の府」に非ず』)



上の文中、「しかるに議員と秘書の関係は全く別で」という箇所の前で、佐藤氏は次のように書いている。

仮に民間の会社であれば、会社の社長宛てに届けられた金を社長に断ることなしに、自分の一存で処分してしまったとすれば、例えそれが会社の用途に使われたとしても、その秘書は厳しい叱責の上、場合によっては解雇されることもあるだろう。__

まったくその通りで 、国民にとっての一般常識が「通用しない」というのが、永田町の「一般常識」のようだ。

これまでに、このようなことが何度となく繰り返されてきたことか。よく考えてみるまでもなく、使用者である議員を無視して、秘書が自分勝手に振る舞えるはずがない。

もういい加減、我々国民は目を覚ます時であろう。

(2016年6月26日)

2016年6月25日土曜日

『一国の首相がロから出まかせのいいたい放題の発言をするようになってはこの世も末』

安倍首相の言葉には、まったく「重み」が感じられない。__口からのでまかせか、一時の思いつきを述べたてる。

安倍首相=『再延期するという判断は、これまでのお約束と異なる新しい判断です』

『これでもかこれでもかといわんばかりに、政治家のお粗末発言が続いている。一般の平議員に始まり現・元大臣と連なり、そしてとどめは最上級の内閣総理大臣となる。

何かをやりとげる自分の能力と、自分自身の価値はちがう

『何かをやりとげる自分の能力と、自分自身の価値を同一視しないことだ。

2016年6月24日金曜日

自業自得「他人を非難しても自分を救えない」

『非難は例外なく時間の無駄である。どんなにを他人のあらさがしをしても、どんなに人を非難してみても、自分が変わるわけではない。

雑事こそ大事「当たり前のことを、当たり前に、キチンとやれ」

『目の前の仕事を、気を抜かずに全力でやる。自分で選んだわけではない仕事こそ、脇目も振らずに、バカになって取り組む。自分で選んだわけではない、

“ほめる”と“おだてる”は違う「ダメなところはダメと自覚させよう」

「ほめる」と「おだてる」は、天と地ほどの、違いがある。

『人のよいところを使えないのはリーダーのせいです。

2016年6月23日木曜日

自分を耕す=自己啓発は資格・就職・世間体を気にしない

『希少価値のなくなってきた学歴を追って心身をすりへらすよりも、自分がほんとうに学びたいことを、資格や就職や世間体といった雑念にわずらわされることなく、

自分の感情に対しては、自分で責任をとる

我々は、往々にして、他人からの評価を基準にして自分を見がちである。
それでは基準(=拠点)を外に求めることになる。

まわりの人を責めるな。言い訳をするな。文句を言うな

『自分を責めたり、言い訳をしたり、
   まわりの人や状況について文句を言ったりする代わりに、

2016年6月22日水曜日

無くて七癖、「人の振り見て我が振り直せ」

『あなたが気になってしかたない性癖というのは、
往々にしてあなた自身がもっているものなのです。

不平不満があるなら、自ら腰を上げてそれを解決しよう

『心が不安定な人間、自分の価値や重要性に確信が持てない人間は、
自慢をしたり不平不満を言います。

他人から賛同される人は「賛同を求めず、望まず、そのことに執着しない」

『私たちが心にえがくのはおそらく、
飾らない、率直で正直な人、

2016年6月21日火曜日

思考が感情を作る、だから自分の感情は自分に責任がある

『自分の考えは自分自身のものであり、その考えを続けようが変えようが、
他人に明かそうが熟慮しようが、まったく自分ひとりのものなのである。

人の値うちは、困難な状況に対する対処の仕方で決まる

『人生の戦いは誰にとっても似たようなものである。
社会的背景の中で人間関係を持っている人なら誰でも、

知識社会にあって、「本はもっとも有能な家庭教師」である

『本はもっとも従順な家庭教師とも言える。

古今東西の哲人賢人粋人奇人が列を作って待ちかまえ、

2016年6月20日月曜日

人間は誰でも「人に認められたい、値うちがあると思われたい」

『人間はみな、人に認められたい、価値があると思われたい、
重視されていると実感したいという強い欲望があります。

あなたという存在は、地球上で唯一の存在である

『この世にあなたと完全に同じ人間はこれまでも存在しなかったし、
これからもしません。

不平不満を言うことと、過ちを指摘して正すこととは違う

《不平不満を言うことと、過ちや欠陥を指摘して正すことを、混同してはならない。
不平を言わないようにすることは必ずしも、悪い品質や無礼な態度を我慢

2016年6月19日日曜日

些細なことにこだわるには、人生はあまりに短い

気にする必要もなく、忘れてもよい「些細な」ことで心を乱してはならない。
ほんの些細なことにこだわるには、人生はあまりにも短いからである。_

最悪の事態を予測し対策を考えよ、無理な時は受け入れよ

人生に不安はつきものである。

人間は次に起こる事態について

自分で自分にレッテルを貼るのは、“愚か者”のすること

ウェイン・ダイヤーは、自分に自分でレッテルを貼るな、と教えて言う。

『自分はいったい誰なのか。自分自身を何と呼べばいいのか。

成長は、人間が生きていることの唯一の証しである

『顕微鏡の下に岩石を置いてよく観察するとわかることだか、
岩石は少しも変化しない。

2016年6月18日土曜日

まだ来ぬ明日のために、現在を無駄にするな

考えてみると、実際、今以外に生きることのできる時は存在しない。

存在するのは今だけであり、未来もまた、

日本の「コメづくり」が滅びたら、日本も滅びる

《もし日本のコメづくりが全滅したらどうなるか。
屋敷林、鎮守の森、里山、水田、畑の連なる、

2016年6月17日金曜日

亀の甲より年の功「知恵に満ちた老人社会を目指せ」

《若いアメリカは歴史がないから未来志向で、知恵よりも知識を武器に発展しているが、横丁のご隠居さんを大切にするわれわれは、「亀の甲より年の劫」という言葉を生かしな

人を文化系と理科系に分けることは教育の否定につながる

《歴史は誰でも勉強します。地理も勉強する。同じように科学を勉強すべきです。科学という言葉が悪ければ、論理学でもいいから、それをきちっと勉強した方がいい。》

群衆の中にあって、群衆の意見に従うのはたやすい

《世の中にあって、世の中の意見に生きるのはたやすい。
ひとりのとき、自分の意見に生きるのはたやすい。

2016年6月16日木曜日

知識は潜在的なパワー「3週間続ければ一生が変わる」

《真の人格者は、正しいことをして日々を送ります。1日の仕事で疲れたあとは、3時間もテレビを見たりせずに、ソファーから立ち上がり、子供たちに本を読んでやる勇気

乗客として人生を航海するな「自分が船長になれ」

『自分自身を人生のCEOと見なせば、自分の世界を見る目が抜本的に変わります、
乗客として人生を航海するのではなく、あなたが船の船長になるのです。

精神がすり切れない方法「オアシスとなる場所を持て」

 『だれもが神聖な場所、つまり、
じっと静かにしていられる“やすらぎの場面”を

2016年6月15日水曜日

人間をボケさせる確実な方法は、一切の情報を与えないこと

『人間をボケさせるもっとも確実な方法は、一切の情報を与えないことです。
極端な例から言うと、一日中椅子に縛り付けて、壁だけ見させていたら、

マニュアルに頼るな「自分の選択・判断で行動する習慣を養え」

『反射的に行動しているだけの人になってはいけません。自分の脳を使って行動を組み立てる。
自分のルールで行動する。

脳トレに最適「家事を上手にするには、高度な脳の働きを必要とする」

『仕事や勉強の中で脳を使うのが高度で、家事の中で使うのが高度でないということはありません。…男性にとっても、女性にとっても、毎日の家事を意識してこなすことは

2016年6月14日火曜日

人生に消しゴムは必要がない

『開発型の人間として柔軟な発想、発想の切りかえをするためには、
「自分の欠点を消しゴムでけすな。」ということだ。』

怠け者が働き者に変わったり、酔っぱらいが酒を断ったりするはずがない

『どんなに厳格な法律を定めたところで、怠け者が働き者に変わったり、
浪費家が倹約に励みはじめたり、酔っぱらいが酒を断ったりするはずがない。』

節約とケチは違う「節約は心のゆとりを生むが、ケチは心を貧しくする」

『節約と吝嗇(りんしょく)とはまるで違う。
節約は心のゆとりを生み、それが気前のよさとなって現れる。』

2016年6月13日月曜日

切り捨てずに生きる「古さの中に、新しさを発見する」

『古いものの中にある良さ、現代にも通用する新しさを発見することが大切である。』
と、鎌田勝氏は言う。

2016年6月12日日曜日

自分の評価と他人の評価は異なる⇨それは新しい発見を産む

《『糸川英夫の 人生に消しゴムはいらない』》から。


自分では正しいと思ったことでも、人の目には誤りと映ったりします。

2016年6月11日土曜日

物事すべては相対的、絶対ということはまずない

『人生にも価値観にも絶対的なものはきわめて少なく、大部分が相対的なものであることがわかってくる。さらには人生に意味を求めようとするなら、

2016年6月10日金曜日

途中で投げるな「進歩が遅くとも続けた者が、最後には勝利する」

『スキーだろうとスケートだろうと、水泳、柔道であろうと、やらずに上手になれる人はまず一人もいないであろう。みんな七転び八起きし、

2016年6月9日木曜日

覚悟して生きよ「何事も、ミスや誤解は避けられない」

『文章を読んだ人が、書いた人が意図しなかったような受けとりかたをし、
解釈し、誤解するのは避けられず、当然のここと思わねばならない。

なぜなら、当の文章を書いた人自身が、自分の書いた文章にびっくりし、
時には落胆し、時には感心したりするからである。』
(勝田勝『能力開発100の方法』)


人間である以上、ミスはさけることが出来ない。
他人と自分とは違うのだから、誤解が生じることは避けられない。

誤解を生じるような書き方をしない。そういう文章を書かないようにと
心がけてはいても、完璧という状態にすることは、困難だろう。

分かりやすい文章。誤解が生じにくい文章を書くには、
簡潔な文章を書くのがよい。

しかし、短すぎても、いけない。
かえって、分かりづらいという場合もある。



私の場合は、「落胆する」ことが多く、
「時には感心したりする」ようなことは、あまりない。

それでも、懸命に書いている。
このような 「つたない」文でも、読んで頂ける。

それに感謝しつつ、また、少しずつ綴って行きたい。

(2016年6月9日)

他人に勝つには力がいる、しかし自分に勝つにはもっと力がいる

『他人を負かすには力がいり、自分を負かすにはもっと力がいる。』
と中国古代の賢人、『老子』は言う。



 別のいい方をすれば、
『他人に勝つには力がいる、しかし自分に勝つにはもっと力がいる』
ということになる。

似たような言葉に、
『山中の賊を破るのは、簡単だが、心中の賊を破るのは、難しい』
というのがある。

どちらも、他人との関係より、自分自身との関係に
注目したものだ。

人はどうしても自分自身より、他人に関心がいく。
自分の欠点には、目をふさぎたがる。

だが、人生において重要なことは、
「自分をどうするか」ということである。

自分自身にさえ打ち勝っことが出来ないのに、
他人に打ち勝つことが出来る訳がない。

2016年3月24日木曜日

『妻である私にも責任の一端があると感じております』

このたびは、夫、乙武洋匡の行動が
週刊誌で報じられた件につきまして、
多くのみなさまにご迷惑をおかけしたことを
お詫び致します。』


自民党が参院選の候補者に擁立する予定の、
乙武洋匡氏のホームページへの書き込みが、
話題になっている。

乙武氏本人の謝罪文は「当然」として、
「妻である私」までもが、謝罪したことには、
大きな違和感がある。

謝罪文が、妻の本当の気持ちを表したもの、
であるかどうかは別にして--
こういう書き込みを世間が受け入れるなら、
日本は江戸時代とあまり変わっていない。

これを「良妻賢母」の手本である、
と日本の社会が称賛するようなら、
今も封建時代と同じである。

それにしても、
多くのみなさまにご迷惑」というのは、
誰に対し、どんな迷惑をかけたのか。

よく使われる言葉なのだが、
どういうことなのか、
聞いて見たいものである。

2016年3月22日火曜日

強い意思で生きよ「言うことは簡単だが、実行する事は難しい」

ましてや、それを継続することは、
なお難しい。

人はよくないことだと解っていても、
つい、楽な道を選択する。

川の水が、高い所から、低い所に
流れるように。


ブログの投稿であれ、ほんのささいな事であれ、
良い習慣を手にいれ、それを継続し、
保っていくことは、困難を伴う。

逆に、あまり良いと思えない習慣は、
身に着きやすい。


自分で自らを励まし、良い習慣を
身につけるように、努力する以外にないと思うが、
これまた、難しい。

夏目漱石ではないが、「この世」は住みにくい。
そう思って、自分をなぐさめる。

ところで、反省と後悔は違う。

反省は進歩につながるが、
後悔は自分をダメにする。

二度と同じ過ちをしない、と反省することはよいが、
後悔が先にたち、何も行動できない。

そういうことになると、
自分で自らを縛ることになる。

例外もあると思うが、
心すべきことであろう。


2016年3月9日水曜日

人生で一番耐えられないことは、 義務も責任もないことである

『人には誰でも、それぞれに義務がある。

したがって、その義務を実行するための
能力をみがく必要がある。


家計のやりくりにせよ、
ビジネスや学問研究にせよ、
また一国の政治にせよ、
それはみな同じなのだ。』

このことは、一線を退いた人々にも、
あてはまる。

人生にとって一番耐えられないことは、
何もなすべき義務も責任もないことである。

義務と責任から解放されると、
人はとたんに気力をなくす。

だから、義務と責任こそが、
人が人間らしく生きていくためには、
欠かすことが出来ない。

たとえ定年になってビジネスから身を引いた男性であれ、
家事から解放された年老いた女性であれ、
何ほどかの義務と責任を分担すべきである。

その事が生きがいとなり、痴呆症などの
予防になる。

『何もしなくてもよい』という言葉ほど、
残酷な言葉はない。

無為な日々を重ねる人生は、
人を無気力に、身体だけでなく
心までむしばんでしまう。

継続は力「努力でカメも、ウサギを追い抜くことが出来る」

努力でカメもウサギを追い抜くことが出来る。

『コツコツ努力する劣等生は、
必ずや飽きっぽい優等生を
追い抜くだろう。

遅くとも着実に歩むものが、
競争では最後に勝つ。


歩みのノロいカメでも、
正しい道さえ通れば、
間違ったみちを行く
競争相手に勝つことが出来る。

だから、熱心に努力さえしていれば、
進歩が遅くとも気に病む必要はない。』

童謡の「うさぎとかめ」の歌詞に歌うとおり、
自分の能力を過信して怠けるウサギは、
ゆったりと歩むカメにさえ負ける。

取るに足りない才能の持ち主であっても、
努力に努力を重ねることで、
天才たちを打ち負かすことが出来る。

たとえ、打ち負かすことができなくとも、
以前と違って格段の能力を手に出来る。


反対に、『何でも手際よく覚える子どもは、
それだけもの忘れも早いし、
忍耐や努力という資質を磨き上げようともしない。』

気がつけば、自分よりも能力の劣ったものに
打ち負かされ、
ほぞをかむことになる。

2016年3月8日火曜日

人間らしく生きよ「どんな環境の中でも、真の人間はその中で成長する」

人が人間らしく生きることが出来るには、
よい環境が必要とは限らない。

『いかに貧しく取るに足りない人間であろうと、
その人が日々の生活で無言のうちに示す模範的な行動は
かけがえのない価値を持つ。


仮に外面上は不幸な境遇--
たとえば、へき地のボロ屋や大都会の狭い路地裏に
暮らしていようと、
真の人間はその中で成長していく。』

たとえば、蓮の花は、
ドロ池の中できれいな花を咲かせる。

人間の偉大さは、過酷な環境にあっても、
それに打ち負かされずに、
立派な人格を手に入れ、
正しい行いをなし、
人の手本となるような人物に育つところにある。

立派な人格を手に入れ人間らしく生きるためには、
よい環境はかえってジャマでさえある。

春のうららかな日差しが、眠りをさそうように。

立派に歩んだ人生と正直一途な人格は、
子孫と社会への大切な遺産である。

このような人生や人間性は、
美徳の何たるかを無言の内に教える。

自助の心で生きよ「自己教育こそが、最良の教育である」

『最良の教育は、人が自分自身に与える教育である。
学校での教育は、ほんの手始めにすぎず、
勉強の習慣を作り上げるという意味でのみ
価値がある。』

学校教育がすべてでもないし、終わりでもない。
学校での教育が終わるところから、
本来の教育が始まる。


たいていの人々は、学校での教育を終えると、
勉強を終えたと勘違いし、
学ぶことを止めてしまう。

だが、本当はここから
本物の勉強が始まる。

今度は、学校の教師に代わって、
自分で教師の役目を果たす。

自分が教師となって、
自分自身に教育を施す。

知識を増やし深め、高い教養を身につける。
人格を磨き上げ、高い道徳心を養う。

世俗的な成功者となるためではなく、
自己の完成に向かって、
絶え間ない努力を重ねる。

このような自己教育を、生が尽きる時まで、
自分自身に与える。

知的にも、道徳的にも、
秀でた人物になりたいと思うのなら、
このことが欠かせない。

かのS・I・ニュートンでさえ、死の直前まで
学び続けた。

雪深い丹後の里にも、雪国の春は来る

柳田国男の『雪国の春』に、次のようにある。

『北国でなくとも、
京都などはもう北の限りで、
わずか数里を離れたいわゆる比叡の山蔭になると、
すでに雪高き谷間の庵である。

それから嶺を越え湖を少し隔てた土地には、
冬籠りをせねばならぬ村里が多かった。


丹波雪国積らぬさきに つれておでやれうす雪に

という盆踊りの歌もあった。

これを聞いても
山の冬の静けさ寂しさが考えられる。

日本海の水域に属する低地は、
一円に雪のために交通がむつかしくなる。』

丹波、丹後は、本州の北海道である。
こういう土地で生まれ、育った人々にとって
春は、特別な季節である。

蕗のとうや、土筆(つくし)が、
雪のあいだから芽を出すと、
雪国にも春が訪れが感じられるようになる。

田畑の根雪が溶けて、黒い土が顔を出すと、
心が浮き立つ。

冬ごもりから覚めて、
山に分け入り、田畑で鍬(すき)をふるう。

それはまた、実りの秋にむけて、
土や草とのたたかいが始まるときでもある。

2016年3月7日月曜日

倹約の心で生きよ「貯蓄は、自尊心や自立心を養う砦である」

お金を倹約して使うというのは、
すぐれた人格者の基礎となる資質である。

「いつでもお金が役に立つ訳ではないが、
衣食や生活上の満足はもとより、自尊心や自立心など
人間に有意義なものを与えてくれるのは、お金の力である。


貯蓄によって、我々は生活の足場を固めることが出来る。
暮らし向きが好転するまで、希望を失わずに、
快活に生きて行ける。」

だから、貯蓄は困窮に対する砦である。


貯蓄によって、自分の足場を固めようと努力することは、
それだけで、十分に尊敬に値する。

その努力を通じて、人は向上し強くなる。

困窮スレスレの生活にあえいでいるものは、
自分の行動さえ自分で決めることができず、
他人に束縛され、人の言いなりにならざるを得ない。

そのような人にならない為には、
節約の習慣を身につけることが必要である。


そして、人が節約するには、
ずば抜けた勇気もすぐれた美徳もいらない。

特別な能力は必要ではなく、
人並みの精神力があれば、十分である。

ただ、節約と吝嗇はちがう。
節約してお金を増やせば、心のゆとりができて、
他人に施すことが出来る。

無くした人生の時間は、お金を山と積んでも買い戻せない

「時は金なり」というのは、
よく言われる格言である。

だが、「時は金以上である」
というのが、正しい表現と言える。

お金は無くしても 、
また働いて取り戻すことが出来る。


しかし、人生における時間は、
一度無くすと、二度と取り戻すことが出来ない。


人はお金を使い果たして初めて、
お金のありがたみを知る。

ところが、時間のありがたみを知るほどに
時間を使い果たしてしまう状況になったときには、
その人の人生は終わる頃になっている。

そのときになって、山ほどのお金を積んだとしても、
無くした時間を買い戻すことは、
出来ない。

だから、時間とお金は、同等ではない。
時間は、お金以上に価値がある。

人生における時間の価値は、
到底、お金で換算することは出来ない。

人は、無くして初めて
「親とお金のありがたみを知る」
という。

人生における時間の価値こそ、
無くす前に、知るべきである。

求めて生きよ「人は真剣に望めば、なりたいものになれる」

人は、望めばどんなものにでもなることができる。
家柄、身分、財産の有無などには、
関係がない。

『われわれの意志の力が神の力と結びつくなら、
その効果はきわめて大きい。


心から真剣に求めつづけていれば、
すべては可能となる。』

ある聖者は、このように語る。

だが、そのためには、
謙譲や忍耐、節度や寛大さなどを
身につけることが、必要となる。

ところが、人間の意志は、時として、
とんでもない方向へ
突き進んでしまうことが多い。

舵が壊れた船のように。
手綱を解かれた馬のように。

だから、意志に正しい目標を与え、
適切な方向に舵をきることが、
重要になる。

「意志あるところに、道は開ける」
といえども、ただ努力するだけでは、
目標は達成出来ないのである。

また、その目標は、善と結びついていることが
大切となる。

善と結びつかない目標を追い求めることは、
意味がない。

「ヒットラー」のようになることが
無駄であるように。


2016年3月6日日曜日

悪い行いをするな「天知る、地知る、われ知る」

『かれが身体によって、
  ことばによって、
またはこころの中で、
  たとえわずかなりとも
   悪い行為をなすならば、
かれはそれを隠すことができない。』


「天知る、地知る、われ知る」
と言われるゆえんである。

たとえ人が見ていないからといって、
悪業をなしてはならない。

その人がいない所で、
陰口を言っては、ならない。

理由もなく、他人を傷つけるような
言葉を、言ってはならない。

他人が知ることが出来ないからといって、
よこしまな心を抱いては、ならない。

因果はめぐり、やがては、
自分に戻ってくる。

風下に居て、塵をまけば、
そのちりが自分にかかるように。

2016年3月5日土曜日

運命に打ち勝って、正しくあれ

人の世に、運、不運はつきもの。
誰でも、それから逃れることは、
出来ない。

しからば、如何にして、それを耐えしのぶか。


このことについて、賢人は、次のように説く。

『君に起ったことが
君の正しくあるのを妨げるだろうか。

またひろやかな心を持ち、
自制心を持ち、
賢く、
考え深く、
率直であり、
謙虚であり、
自由であること、
その他同様のことを妨げるか。

これらの徳が備わると人間の本性は
自己の分を全うすることができる』

要は、自分の心のもち方次第である、
と言うことであろう。

たとえ、その身に何が起きようとも、
清らかで、善い心で、
それに打ち勝て。

じたばたせずに、心を静かに保って、
怒りを静めよ。

怒りに、怒りを持って対抗しても、
何の解決にもならない。

かえって、問題を複雑にする。
その怒りが、我々の心をむしばむ。

運命に打ち勝つための行動をさまたげる。

だから、正しく善い心で、
対処せよ。

かの偉大なソクラテスが、
泰然として毒杯をあおいだように。

天は自らを助けるものを助ける

S・スマイルズの『自助論』に、言う。
「天は自らを助けるものを助ける」と。

これは、古今東西 不変の真理である。


「馬を川まで連れて行く」ことは、出来る。
だが、馬に水を飲ませることまでは、出来ない。

水を飲むのは、あくまでも、
馬自身の意志と行動による。


同様に、人が自分を助けることが出来るのも、
自身の意志と行動による。

他人は、ただその人を川に連れて行くことが、
出来るだけである。

人が馬を川まで連れて行く、ように。


意志あるところ、道は開ける。
道なくば、自分で道を切り開く。

このような精神をもつことが、重要だ。

もっとも、これは簡単なことではない。
言うは易く、行い難い。

その行い難いことに、挑戦する。
そこに、人生の妙味がある。

それもまた、
真実である。

依存心と独立心、このふたつは矛盾しない

「依存心と独立心、
つまり、他人をあてにすること
と、自分に頼ることー

この二つは一見矛盾したもののように思える。
だが、両者は手を携えて進んでいかねばならない」
と、イギリスの詩人、ワーズワースは言う。


このことは、人という文字からも
よく解ることである。

人という文字は、二本の棒で 
支えあっている。

どちらか一方が、倒れると、
両者が倒れる。


また、「情けは、他人のためならず」とも、
言う。

「巡りめぐって、自分に帰って来る」
ということではなくて、
他人を助けることが、
自分を助けることに、つながる。

人が社会的存在である以上、
何らかの形で、他人に育てられる。

何んらかの形で、教えを受ける。

それらのことの「恩返し」が、
他人に「情けをかける」ことで、
可能となる。


また、親友というものは、
人にとっては、「宝物」である。

特に、「心友」ともなれば、
一生の宝物、と言える。

助けられ、助ける。
支え、支えられる。

けっして、不名誉なことではない。

このような友を、一人でも得たなら
それだけで、その人の人生は、
大成功と言える。

独立心は重要だが、時として
「独善的人間」を生み易い。

そういう時期に、頼りになるのも、
親友=心友 である。


2016年3月4日金曜日

よく生きよ「自覚のない人生は、動物にも劣る」

人生を「よく生きること」は、
難しい。

「よりよく、生きること」は、さらに難しい。

そして、このことを自覚して
生きることは、もっと難しい。


自覚のない人生は、
動物の「一生」にも、劣る。

それは、ただ「息をしている」だけの人生
にも等しい。

ただ息をするだけなら、
犬や猫でもする。

それどころか、犬や猫でも、
自覚して生きる。

それなりの「役目」を
果たすべく努力する。

だから、「ただ息をしている」
だけの人生は、動物にも劣る人生である。


一回きりの、二度とない人生を
充実させて生きることは、
人としての義務でもある。

だが、このことは、簡単では、ない。
人間なら、誰にでも出来ることでも、ない。

数学や外国語を学ぶこと以上に
人生を学ぶことは、難しい。

充実した人生を送るための
知識と技術を手に入れる。

そのためには、普段の努力がいる。
この自覚が、大切である。

そうでないと、人生から
見捨てられる。



2016年2月28日日曜日

「ごみの分別処理は必要」か←「ムダなこと」ではないのか

間もなく、卒業、入学、入社のシーズンである。
住み慣れた土地や、家を離れ、新たな生活を始める人々が、ある。

生活をしていれば、ゴミが出る。
このゴミが、問題になる。

2016年2月21日日曜日

今を生きよ「人生の重荷は、未来や過去ではなく現在にある」

今日のことは、今日一日で足りる。
明日のことで、悩むな。
過去に、縛られるな。

人生を深く考察した賢人も、言う。

 『君の全生涯を心に思い浮べて気持をかき乱すな。
どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、
と心の中で推測するな。


それよりも一つ一つ現在起ってくる事柄に際して
自己に問うてみよ。
「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。

まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。

つぎに思い起すがよい。

君の重荷となるのは未来でもなく、
過去でもなく、つねに現在であることを。

しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば
小さなことになってしまう。

またこれっぱかしのことに
対抗することができないような場合には、
自分の心を大いに責めてやれば
結局なんでもないことになってしまうものである。』

これは、観方を変えれば、
困難を分割せよ、
ということになる。

今日出来ることだけに集中し、
明日に伸ばさない。

明日が来たら、
「明日の今日」に集中する。

その日、一日に出来ることに限定して、
難題であろうとも、立ち向かうのが、良い。



2016年2月20日土曜日

君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、 君の判断

人生には、悩みがつきものである。
このことに、例外はない。

いくら幸福そうに見える人々でも、
内面には、悩みを抱えている。

いくら地位を得て、
使い切れないほどの資産があろうとも、
悩みは、とりつく。


その悩みから解放されるには、どうすればよいか。
ローマ時代の賢人は、以下のように、言う。

 『 君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、
君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、
それに関する君の判断なのだ。

ところがその判断は君の考え一つで
たちまち抹殺してしまうことができる。


また君を苦しめるものがなにか
君自身の心の持ちようの中にあるものならば、
自分の考え方を正すのを誰が妨げよう。

同様に、もし君が
自分に健全だと思われる行動を取らないために
苦しんでいるとすれば、
そんなに苦しむ代りになぜいっそ
その行動を取らないのだ。』と。

我々は、常に悩みを抱えている。
しかし、その悩みは、解決することが出来る。

どんな悩みであろうとも、
解決する方法がある。

なぜなら、すべての悩みは、
自分自身がみなもとである、のだから。

自分の考えひとつで、解決することが出来る。
自分の行動が解決に、みちびく。


2016年2月19日金曜日

心せよ「世の中には恥知らずの人間もいる」

『他人の厚顔無恥に腹の立つとき、
ただちに自ら問うてみよ、

「世の中に恥知らずの人間が存在しない
ということがありうるだろうか」と。

ありえない。
それならばありえぬことを求めるな。


その人間は世の中に存在せざるをえない
無恥な人びとの一人なのだ。

悪漢やペテン師やその他あらゆる悪者についても
同様な考えをすぐ思い浮べるがよい。

かかるたぐいの人間が存在しないわけにいかない
という事実をおぼえていれば、
それによって 君はそういう個々の人間にたいして、
もっと寛大な気持をいだくようになるであろう。』

これは、アウレウス帝の教えである。
もっともな説だ。


ところが、無作法者に対する我々の反応は
「自らに問うて」みる前に、
怒りが心頭に発する。

自分をコントロールすることを
忘れてしまい、
相手の術中にはまる。

これは自分以外の他人に、
操られることだ。

こうした態度を取り続ける限り、
いつまでたっても、無作法者に
悩まされる。


猫がネズミを取ることが自然なように、
詐欺師が人をだますのも、自然なこと。

泥棒は、他人のものを盗むのが
仕事である。

彼らは、たんに彼ら自身の「つとめ」を
果たしているにすぎない。

それをとがめて、どうなるのか。
どうも、なりはしない。

かえって、とがめ立てをした
こちら側が傷つくだけのこと。


「柱に足の小指をはげしく打ち当てた」って。
そうなら、しばらくすれば
小指の痛みはとれる。

大げさに、騒ぎ立てるほどの
ことはない。


2016年2月18日木曜日

山中の賊を破るは易く 心中の賊を破るは難し

『陽明全書』に言う。

『山中の賊を破るは易く、
心中の賊を破るは難し』と。


素直に解釈するなら、
山の中で出会った山賊を成敗することは、
簡単である。

だが、自分の心の中に住む「山賊」を、
成敗することは、難しいものである。

こういうことであろう。

同様に、これはいかようにも、表現することが出来る。

「他人の欠点を指摘することは、たやすい。
されど、自分の欠点を直視することは、難しい。」

このように言っても、同じことであろう。

さらに、付け加えるならば、
「その欠点を改めることは、
なお一層、難しい。」と。


あるいは、また
「他人を打ち負かすことはたやすい。
しかし、自分に勝つことは、難しい。」

自分の中にある「怠け心」に打ち勝つことは、
容易なことでは、ない。

それだけに、
自分の中に住む、「怠け心」に打ち勝つことが
できた者こそ、真の「英雄」という称号を
送るにふさわしい。

2016年2月17日水曜日

人間としての義務を果たすために、私は起きる

『明け方に起きにくいときには、
つぎの思いを 念頭におくがよい。

「人間のつとめを果たすために
私は起きるのだ。」

自分がそのために生まれ、
そのためにこの世にきた役目を
しに行くのを、
まだぶつぶつ いっているのか。


それとも自分という人間は
夜具の中にもぐりこんで
身を温めているために創られのか。

「だってこのほうが心地よいもの。」
では君は心地よい思いをするために
生まれたのか。

いったい全体君は物事を受け身に
経験するために生まれたのか、
それとも
行動するために生まれたのか。

小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛やミツバチまでもが
おのがつとめにいそしみ、
それぞれに自己の分を果たして
宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。』

このように説く。
そして、「まなけもの」に厳しく問う。

『しかるに、君は人間のつとめをするのが
いやなのか。

自然にかなった君の仕事を
果たすために はせさんじないのか。』と。




2016年2月16日火曜日

たとえ身体は束縛されても、精神の自由は保てる

『人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。
君もまたそうした所に熱烈に憧れる習癖がある。

しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。

というのは、君はいつでも好きなときに
自分自身の内にひきこもることが出来るのである。

実際いかなる所といえども、
自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を
見出すことはできないであろう。



この場合、それをじいっとながめていると
たちまち心が完全に安らかになってくるようなものを
自分の内に持って居ればなおさらのことである。』

ローマ帝国、皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス
は、『自省録』のなかで、こう述べる。

それは、牢獄に閉じ込められたソクラテスが、
「牢屋のなかにいるのではない」と、
自分のことを考えていた。

『身体は束縛されても、
その心までは誰にも、
支配されることがない。

だから、私は自由である』
と認識した。

そのことに、通ずるものである。

現代に生きる我々は、
自由自在に行動できる『文明の利器』を
手に入れた。

そうであるにも関わらず、
至る所で、束縛されている。

心が、あらゆるものに「捕らわれ」ており、
自由にものを考えることさえも、
出来ずにある。



2016年2月5日金曜日

善くないことはなし易い、善いことはなし難い

『自分がつくり、
自分から生じ、
自分から起こった悪が、
智慧悪しき人を うちくだく。

――金剛石が宝石をうちくだくように。


きわめてタチの悪い人は、
仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、
自分に対してなす。

――つた草が紗羅の木にまといつくように。

善からぬこと、
己のためにならぬことは
なしやすい。

善いことは、
じつに
きわめてなしがたい。』



「藁人形」を作って、呪い殺してやりたいほどに、
憎らしいと思われている相手が、
我に対してしたいと思うことを、
自分が 自分自身に対して行う。

これほどの愚行は、他にはない。

善くないことだと解っていても、
人は悪い習慣を改めることがない。

自分の身体に悪い、
自分の精神衛生に悪い、
と解っていても 変えることが出来ない。

反対に、
善いと解っていても、
それを実行に移すことが
むずかしい。

世のため 他人のため 自分のためになる、
善いと思うことでも、
なかなか行うことができない。

良い習慣、良い行いをなすことは、
並大抵のことではない。

反対に、
「悪の道」には、はまりやすい。

知らず知らずのうちに、
染まる。

――墨が 半紙に染みこむように。


2016年2月4日木曜日

2016年2月2日火曜日

自由に生きよう「この世に非難されない者はいない」

「これは昔にも言うことであり、
いまに始まることでもない。

2016年1月22日金曜日

真剣に生きよう「今日の日は、ふたたび、来ないから」


いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に

迷うことなく人生を歩むには、心を支配せよ

人が迷うことなく確信を持って、
道を歩んでいくためには、

2016年1月19日火曜日

フクイチ原発事故「賠償(金)はい(らな)いから、生活を返してくれ」

それは、当然の願いである。賠償金は要らないと言うのは、米国人にすれば理解不能なことかもしれない。だが、「生活を返してくれ」という願いは、「アメリカインディアン」の場合と同じであろう。

2016年1月18日月曜日

フクイチ原発事故「人災を覆い隠す“被害者”意識」=藤原肇

6年目の春が、もうすぐやってくる。「3・11」のことである。東北大震災によるフクイチの原発事故から、6年目の春が来る。
「STAP細胞」騒動、特定秘密保護法、集団的自衛権の行使の容認、などの議論に隠れて、東北大震災のことや、フクイチの事故に関することがらが、

2016年1月13日水曜日

”悩む人間”としてのシャカ「中村元『ゴータマ・ブッダ Ⅱ』」

読書ノート。さとりを開いた後もなお、「悩む人間」としての尊師を描く。この本は第11巻の続編である。これをもって、中村元博士の「ゴータマ・ブッダ」伝は、完結する。博士が、鬼籍に入られた今となっては、本当に決定版となった。

「苦しみ」の中に、「楽しみ」を見出す

「苦」の中にこそ、「楽」を見出しうる。
安易な仕事、安易な生活、安易な人生の中には

2016年1月11日月曜日

歴史的人物として描く「中村元著『ゴータマ・ブッダ Ⅰ』」

読書ノート。長い物語である。味わうには、ゆっくりと読む必要がある。現在流行りの速読とは、およそ、縁のない書物である。今回取り上げるのは、中村元(はじめ)選集第11巻『ゴータマ・ブッダ Ⅰ』(春秋社刊 1992年)である。

目に余る「成人式での、新成人による”傍若無人”」

今日は、成人の日である。従来は、1月15日であったのが、2000年から、1月の第2月曜日に変更になった。
ところで、その成人式。目に余る所業も、多々あるようだ。

2016年1月8日金曜日

S・R・バット教授「中村元によるインド哲学思想体系の解説は無比」

元デリー大学のS・R・バット教授は、中村元(はじめ)のインド思想体系の解説は、無比なものである、と言う。
この記事も前回に続いて、中村元・博士に関する記事を投稿したい。

2016年1月6日水曜日

2016年1月5日火曜日

新しいものより 古いものが良い

ゴータマ(釈尊)には、
「仏教」という特殊な宗教を開創するという意識がなかった、

「思いついたとき、気がついたとき」が常にスタート

ある日、「ここに来てよかった。これまでの疑問が氷解しています」と言い、
さらに「もっと早く来ればよかった」と言った。

2016年1月4日月曜日

人生の出会い「ブルース・カミングスと中村元の世界」

私のこれからの人生の1つの目標になる。こういう思いがしている。
その思いを抱かせてくれる本は、ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源』(全3冊)と、中村元博士の『普遍思想』(中村元選集 別巻2)、である。

2016年1月1日金曜日

読者の皆様「今年も宜しくお願い致します」

新年、明けましておめでとうございます。
昨年は、当ブログの訪れて頂き、ありがとうございました。