2016年1月13日水曜日

”悩む人間”としてのシャカ「中村元『ゴータマ・ブッダ Ⅱ』」

読書ノート。さとりを開いた後もなお、「悩む人間」としての尊師を描く。この本は第11巻の続編である。これをもって、中村元博士の「ゴータマ・ブッダ」伝は、完結する。博士が、鬼籍に入られた今となっては、本当に決定版となった。


もし、博士がご存命であれば、さらなる「「ゴータマ・ブッダ」伝を読むことが出来たであろうが、それも今となっては、不可能となった。


 目次

目次は、以下のようになっている。これ以外にも、小見出しがあるが、ここでは省略した。

――目次――

第2編 最後の旅

第1章  故郷をめざして
第2章  旅の病む
第3章  大いなる死

第3編  人間ゴータマ・ブッダの神格化

第1章  人間として尊敬されたゴータマ
第2章  神格化への踏みだし


 「人間、ゴータマ・ブッダ」

尊師が修行僧に説いた教えを紹介したあとに、中村博士は、次のように言う。
「ここには『わたしたちの教え』が説かれているである。『わたしたち』と複数形で示されているが、このことはゴータマ・ブッダが開祖個人の特別の権威を主張しなかった(この部分、原文では、傍点あり。以下、同様。)ことを示している。彼に個人として権威を帰したのは、後世の仏教徒たちである、と考えられるのではなかろうか。」
あくまでも謙虚である。博士は、「言い切る」ということをしない。これは、博士の学問的態度に由来するものである、ということができるであろう。

ブッダが、弟子のアーナンダに説く教えのあとにも、以下のように述べる。
「ゴータマ・ブッダは、自分が教団の指導者であるということをみずから否定している。たよるべきものは、めいめいの自己であり、それはまた普遍的な法に合致すべきものである。・・・・
自分が死ぬのを嘆いてはいけない。生まれたものは必ず死ぬという運命を、なんぴとも免れることはできない。無常の理は絶対である。しかし、死ぬのは、この私の肉体である。
それは朽ちはてるものである。真の生命は、わたくしが見出し、わたくしが説いた理法である。それに人々が気づいて実践しているならば、そこにわたくしは生きている。永遠のいのちである。」

このように解説するのである。博士は、あくまでも「人間、ゴータマ・ブッダ」を描くのである。描き通すのである。その態度は、一貫していて、ブレることがない。


 「大いなる幸い」

この12巻は、最晩年から、死にいたるまでのゴータマ・ブッダ」の姿が記述されている。ここに「写し取って、紹介したい」文章は多いが、これぐらいにしておきたい。

以下は、この本自体、中村元(はじめ)氏に関する感想を述べる。

この本に伝記と一般に言われている書物と同じことが書かれている、と期待する人には、「失望」を与えるかもしれない。

この本は、中村博士が言うように、小説でもなければ、単なる伝記でもない。まさしく、一個の研究書である。それは、膨大なる注釈のことを考えただけでもよく解る。

この本は、伝説や空想を排し、ブッダの実体に可能な限り、「科学的態度」をもって迫ろう、としたものである。博士は、謙虚にも、「これは”概略詩論”である、と述べる。

しかも、この本にして、それは「不十分なものである」と言う。ここに、中村博士の学問的良心を見出し得る。

博士は、仏教徒ではないが故に、真実の「ゴータマ・ブッダ」の姿を描いて見せることが出来た。そう思う。

もし、博士が仏教徒であったなら、このような書物は生まれることがなかった、であろう。このことは、我々日本人にとっては、「大いなる幸い」であった。私はこう感じるのである。


 繰り返し何度も、読み返すべき本

この本は、一度読み終えたら、それでよい、というようなものではない。いくらかの期間をおいて、繰り返し何度も手に取って、読み返すべき本である。

読み手の知識や、心の深まりなどによって、より深く味わうことが出来る。そういう類の本である。

これは、中村博士が注意していることでもあるが――、たしかに同じフレーズが繰り返し、何度も出てくる。けっして、読んでいて「楽しい」と思えるような書物ではない、と言えるかもしれない。

だがそれは、「良薬が、口に苦い」ようなものと同じことであり、「ガマン」も必要だ。

この本が、書棚に並んでいるだけで、ずいぶんと、――わずかな蔵書しかない私の書棚であるが――「立派」に見える。もちろん、これは「借りた本」であり、「私のもの」ではない。

だから、いずれは手に入れたい、と思っている。

(2016年1月13日)