<web上「読書会」 正村【4】を投稿します。
今回は、ポツダム会談を観て行きます。
この会談は、1945年7月17日にベルリン郊外のポツダム宮殿で行われました。集まったのは、トルーマン、チャーチル、スターリン。ソ連、アメリカ、英国の首脳です。
ここでは、「冷戦」の契機になった「ポツダムの目的」とは、何であったのかが、検証されています。結論から先に述べておくとそれは、対ドイツ戦争の勝利後の処理を協議することでした。
◆ ここからは、「引用」
≪アメリカ大統領フランクリン・ローズベルトは4月12日に病死し、副大頭領のハリー・トルーマンが大統領に昇格就任した。イギリスではポツダム会談直前の7月5日に総選挙があり、労働党が勝利した。7月26日にチャーチルの保守党は総辞職、27日にアトリーの労働党内閣が成立した。
ポツダム会談のイギリス代表は途中でアトリーに変わった。米英ともに第二次大戦中の最高指導者が国際政治の表舞台から去ったのである。
ポツダム会談は8月2日まで続けられ、最後にドイツに関する議定書が発表された。この会談は第二次大戦中の一連に首脳会談の最期のものであったが、戦後ヨーロッパ問題の処理に関しては具体的成果を残すことが出来なかった。
米英両国ともソ連の対立は覆いがたくなっていた。とくにポーランド問題で両者の対立は深刻化していた。
米英両国は、1939年のヒトラーとスターリンによるポーランド分割以前のポーランド政府を継承する在ロンドン亡命政権を支持し、戦後には自由な選挙による民主的ポーランド政権の成立を希望した。
しかし、ロンドン亡命政権はソ連に不審を抱き、「カチンの虐殺」事件が表面化して以後は、徹底調査を国際赤十字に要請し、スターリンとの対立を深めていた。
カチンの虐殺事件は、スモンレスク付近のカチンの森で数千人のポーランド将校が殺害されているのを発見したとナチス政府が1943年に発表して明らかにになった。1939年にポーランド東部に侵攻したソ連軍によって連れ去られ行方不明になっていたポーランド軍人が1940年にソ連軍の手で殺害されたものと推定された。
1944年8月1日、ロンドン亡命政権の指示によりワルシャワ市民が武装蜂起し、9週間にわたりナチスと戦った。ワルシャワに接近していたソ連軍はナチスによる弾圧によって蜂起軍が敗北するまで進撃を停止した。
ソ連軍は自由な選挙によってソ連に友好的なポーランド政権が成立する可能性はないと判断した。ソ連軍は、ロンドン亡命政権の影響下にある勢力がドイツ軍によって壊滅させられたのち進撃を再開し、モスクワに亡命していてスターリンの粛清にも生き残った共産主義者たちに新ソ連政権をつくらせた。
このようなスターリンの政策は米英に不審と警戒心を呼び起こし、「冷戦」の出発点になった。ヨーロッパにおける第二次大戦開始の直接の契機は独ソによるポーランド分割であったが、第二次大戦後の冷戦の最初の契機もポーランド問題だった。
ポツダム会談ではドイツ分割を回避するための統一管理を実現するよう努力することが基本的に合意された。米英もソ連もこの時点ではそれぞれの考えがあってドイツ分割を望まなかった。
しかし、具体的な処理は米英仏四国の外相レベル以下の会談に委ねられ、全員一致の原則によることになった。ソ連一国が拒否すれば何らの新しい決定も採用されなかった。分割占領という現実を修正する保証はどこにもなかった。
ドイツ全土は、西側の米英仏占領地域に二分され、さらにソ連占領地域内の「飛び地」の形で西ベルリンの米英仏管理地区が残された。
ソ連は1939年にヒトラーとの密約で入手したポーランド東部を恒久的なソ連領に編入し、その代わりにドイツ領のオーデル川とナイセ川の以東をポーランド領に編入した。この国境変更により、数百万人のポーランド人とドイツ人が移住を強制された。
ポツダム会談開催中に日本に降伏を勧告する文書がまとめられた。草案はアメリカ政府が用意し、チャーチルとこの会談には出席しなかった蒋介石の承認を得た。この文書は「米英中三国政府の共同宣言」として7月26日に発表された。「ポツダム宣言」である。ソ連政府にも内容が伝達された。ソ連は8月8日の対日参戦と同時にこの宣言の署名者となった。≫
◆ ヤルタ会談と、ポツダム会談
このポツダム会談に先立って、ヤルタ会談が1945年2月4日~11日にクリミア半島のヤルタ近郊で行われていました。その時はまだ、ルーズベルトが存命中であり、スターリンとのあいだで「密約」が結ばれていました。
この会談では、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで、大戦後の国際秩序を規定する協議が行われました。
日本を戦争に「引き込んだ」張本人のルーズベルトの「死」や、チャーチルの交代は、ポツダム会談や、ポツダム宣言にいかなる影響をあたえたのでしょう。
それは、「神のみぞ、知る」ということであるのかもしれません。
明日は、「ポツダム宣言」を取り上げます。
※ なお、ラベル名を「抜書き帳」から、「メモ帳」に変更しました。
(2015年10月5日)
今回は、ポツダム会談を観て行きます。
この会談は、1945年7月17日にベルリン郊外のポツダム宮殿で行われました。集まったのは、トルーマン、チャーチル、スターリン。ソ連、アメリカ、英国の首脳です。
ここでは、「冷戦」の契機になった「ポツダムの目的」とは、何であったのかが、検証されています。結論から先に述べておくとそれは、対ドイツ戦争の勝利後の処理を協議することでした。
◆ ここからは、「引用」
≪アメリカ大統領フランクリン・ローズベルトは4月12日に病死し、副大頭領のハリー・トルーマンが大統領に昇格就任した。イギリスではポツダム会談直前の7月5日に総選挙があり、労働党が勝利した。7月26日にチャーチルの保守党は総辞職、27日にアトリーの労働党内閣が成立した。
ポツダム会談のイギリス代表は途中でアトリーに変わった。米英ともに第二次大戦中の最高指導者が国際政治の表舞台から去ったのである。
ポツダム会談は8月2日まで続けられ、最後にドイツに関する議定書が発表された。この会談は第二次大戦中の一連に首脳会談の最期のものであったが、戦後ヨーロッパ問題の処理に関しては具体的成果を残すことが出来なかった。
米英両国ともソ連の対立は覆いがたくなっていた。とくにポーランド問題で両者の対立は深刻化していた。
米英両国は、1939年のヒトラーとスターリンによるポーランド分割以前のポーランド政府を継承する在ロンドン亡命政権を支持し、戦後には自由な選挙による民主的ポーランド政権の成立を希望した。
しかし、ロンドン亡命政権はソ連に不審を抱き、「カチンの虐殺」事件が表面化して以後は、徹底調査を国際赤十字に要請し、スターリンとの対立を深めていた。
カチンの虐殺事件は、スモンレスク付近のカチンの森で数千人のポーランド将校が殺害されているのを発見したとナチス政府が1943年に発表して明らかにになった。1939年にポーランド東部に侵攻したソ連軍によって連れ去られ行方不明になっていたポーランド軍人が1940年にソ連軍の手で殺害されたものと推定された。
1944年8月1日、ロンドン亡命政権の指示によりワルシャワ市民が武装蜂起し、9週間にわたりナチスと戦った。ワルシャワに接近していたソ連軍はナチスによる弾圧によって蜂起軍が敗北するまで進撃を停止した。
ソ連軍は自由な選挙によってソ連に友好的なポーランド政権が成立する可能性はないと判断した。ソ連軍は、ロンドン亡命政権の影響下にある勢力がドイツ軍によって壊滅させられたのち進撃を再開し、モスクワに亡命していてスターリンの粛清にも生き残った共産主義者たちに新ソ連政権をつくらせた。
このようなスターリンの政策は米英に不審と警戒心を呼び起こし、「冷戦」の出発点になった。ヨーロッパにおける第二次大戦開始の直接の契機は独ソによるポーランド分割であったが、第二次大戦後の冷戦の最初の契機もポーランド問題だった。
ポツダム会談ではドイツ分割を回避するための統一管理を実現するよう努力することが基本的に合意された。米英もソ連もこの時点ではそれぞれの考えがあってドイツ分割を望まなかった。
しかし、具体的な処理は米英仏四国の外相レベル以下の会談に委ねられ、全員一致の原則によることになった。ソ連一国が拒否すれば何らの新しい決定も採用されなかった。分割占領という現実を修正する保証はどこにもなかった。
ドイツ全土は、西側の米英仏占領地域に二分され、さらにソ連占領地域内の「飛び地」の形で西ベルリンの米英仏管理地区が残された。
ソ連は1939年にヒトラーとの密約で入手したポーランド東部を恒久的なソ連領に編入し、その代わりにドイツ領のオーデル川とナイセ川の以東をポーランド領に編入した。この国境変更により、数百万人のポーランド人とドイツ人が移住を強制された。
ポツダム会談開催中に日本に降伏を勧告する文書がまとめられた。草案はアメリカ政府が用意し、チャーチルとこの会談には出席しなかった蒋介石の承認を得た。この文書は「米英中三国政府の共同宣言」として7月26日に発表された。「ポツダム宣言」である。ソ連政府にも内容が伝達された。ソ連は8月8日の対日参戦と同時にこの宣言の署名者となった。≫
◆ ヤルタ会談と、ポツダム会談
このポツダム会談に先立って、ヤルタ会談が1945年2月4日~11日にクリミア半島のヤルタ近郊で行われていました。その時はまだ、ルーズベルトが存命中であり、スターリンとのあいだで「密約」が結ばれていました。
この会談では、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで、大戦後の国際秩序を規定する協議が行われました。
日本を戦争に「引き込んだ」張本人のルーズベルトの「死」や、チャーチルの交代は、ポツダム会談や、ポツダム宣言にいかなる影響をあたえたのでしょう。
それは、「神のみぞ、知る」ということであるのかもしれません。
明日は、「ポツダム宣言」を取り上げます。
※ なお、ラベル名を「抜書き帳」から、「メモ帳」に変更しました。
(2015年10月5日)
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