<web読書会 正村(25)>を投稿します。
朝鮮戦争に中国が参加したことで、日中間の貿易に影がさしてきます。
しかし、日中間において民間レベルでの「貿易協定」が成立、貿易を再開することが出来ました。
これで、米国が国会の議決により、戦略物資を共産圏に輸出した国に軍事的経済的援助を停止する、と規定した法律に対抗する手段が出来ました。
今日は、昨日の続きで、日中貿易を読んでいきます。
◆ 日中民間貿易協定に調印
≪1951年2月、国連は中国を「侵略国」として非難する決議案を採択し、さらに5月には対中国戦略物資輸出禁止勧告決議案を採択した。これよりさき、1949年11月にNATO加盟国により対共産圏輸出規制委員会(CCEC=略称ココム)が設置されていたが、192年8月には、ココムの下部組織として対中国輸出統制委員会(CC=略称チンコム)が設置された。日本は、講和発効後の1952年11月14日、ココム加盟を承認された。
アメリカ議会は、1951年5月、戦略物資を共産圏に輸出した国には軍事的経済的援助を停止するというケム議員の提案を採択した。このケム条項には西ヨーロッパの同盟国の批判が強いとみて、アメリカ国家安全保障会議は発効停止措置をとった。
議会は、ケム条項に代わるものとして、バトル議員の提案で対共産圏諸国輸出禁止措置を1951年10月に可決成立させた。バトル法は、やはり、兵器類、原子力関係資材、石油などの戦略物資を共産圏に輸出した国には軍事的経済的援助を停止すると規定した。
このような東西緊張激化による経済交流断絶の傾向を阻止し、東西貿易を発展させ、そこから緊張緩和への手がかりを得ようとする運動が組織された。1952年4月3~12日、東西の経済・貿易交流と平和運動の発展を目標に掲げてモスクワ国際経済会議が開催された。
この会議の発起人の一人である中国人民銀行総裁南漢宸は、1951年12月、日本の経済人、政治家、学者などに参加を呼び掛けた。
これに応じて、石灰湛山、北村徳太郎(親和銀行頭取、のちに改進党の衆議院議員)、鮎川義介(日産コンツェルンの創業者、にちの改進党の衆議院議員)、村田省三(大阪商船会長)、安川第五郎(安川電気社長)、箕浦太一(日産重工社長)などが、1952年1月27日に国際経済懇談会を結成した。
南・・は、国際経済懇談会にたいしてモスクワ会議ではアジア地域における貿易と経済協力の発展について日本代表と協議したいという意向を伝えてきた。石橋らは代表派遣のための旅券交付を申請したが、外務省は、ソ連には抑留日本人が多いこと、日本に不利益な行為を行う危険があることを理由に交付を拒否した。
しかし、高良とみ(参議院議員、緑風会)、帆足計(全参議院議員、同)、宮腰喜助(衆議院議員、改進党)の4人は西ヨーロッパを経由してモスクワにはいり、さらに北京を訪問して、南漢宸(このときは新設された中国国際貿易促進委員会の首席)ら中国側代表と会談し、6月1日、日中民間貿易協定に調印した。
最初の日中民間貿易協定である。輸出・輸入はそれぞれ3000万英ポンドとし、輸出・輸入品目をそれぞれ甲・乙・丙の三種類の分類して各種類別の比率をきめ、物々交換により各種類ごとに輸出入の均衡を図るというバーター(物々交換)方式が採用された。
日本からの輸出の甲類には鋼材、アルミニウムなどの金属材料が、乙類には紡績機械、汽船、機関車、起重機、その他の機械類が、また丙類には農業機械、自転車、綿糸、その他が含まれていた。
日本の輸入の甲類には、石炭、大豆、マンガン、鉄鉱石などが、乙類には塩、綿花、羊毛、ボーキサイト、その他の原材料が、また丙類には綿実粕、豚皮、その他が含まれていた。
種類別のバーター方式が採用されたのは、バトル法やチンコムの規制のために真に中国が必要としているものが日本から輸出されず、日本ン側だけが必需物資を入手するという結果になっては不公平だからである。
高良、帆足、宮腰の結んだ協定にたいしては、日中貿易促進会、日中友好協会などで結成した日中貿易促進会議のなかの共産党系の活動家が「公式の代表でなく個人的行動だ」として不支持を表明するなど複雑な反応が起こったが、アメリカと吉田内閣の対中国禁輸政策のため、日本からの輸出が協定をはるかに下回り、中国側は繰り返し不満を表明した。≫
◆ 「太平洋の時代」は終わった
現在においても、そうですが、経済活動に政治が介入すると、「ろくな結果」しかもたらしません。
経済は「生き物」であり、人間の手で勝手に動かすことが出来ないからです。
特に今日のように社会の仕組みや、生産構造が複雑化すると、尚更のことです。
ヘタに政府が介入すると、順調にいっているものさえ、壊わしかねません。
ここに張り付けたように、アメリカとの貿易は急速に低下し、東アジアとの貿易が急速に拡大してきています。
東アジアとは、もちろん、「中国のこと」。中国が代表しています。
今や、日本にとって、最重要相手国は、中国なのです。
しかも、米国と違い、中国とは地理的に近接しており、物流の点でも、「安上がり」です。
今や、「太平洋の時代」は終わった、といっても良いと思われます。
これからの日本列島は、「裏日本」が「表日本」になる時代が到来した、といっても過言ではない、と思います。
もはや、アメリカ一辺倒では、日本は、世界から取り残される。
そういう認識に立つ必要がある、といえると思います。
※ 明日、もう一回中国との関係を観ます。
そのあとは、日韓関係を観て、その後、沖縄、小笠原問題と、観ていきます。
そして、「安保条約の改定」へと進んでいく予定です。
いよいよ、安倍首相のおじいさんの「岸信介」の登場です。
(2015年10月26日)
朝鮮戦争に中国が参加したことで、日中間の貿易に影がさしてきます。
しかし、日中間において民間レベルでの「貿易協定」が成立、貿易を再開することが出来ました。
これで、米国が国会の議決により、戦略物資を共産圏に輸出した国に軍事的経済的援助を停止する、と規定した法律に対抗する手段が出来ました。
今日は、昨日の続きで、日中貿易を読んでいきます。
◆ 日中民間貿易協定に調印
≪1951年2月、国連は中国を「侵略国」として非難する決議案を採択し、さらに5月には対中国戦略物資輸出禁止勧告決議案を採択した。これよりさき、1949年11月にNATO加盟国により対共産圏輸出規制委員会(CCEC=略称ココム)が設置されていたが、192年8月には、ココムの下部組織として対中国輸出統制委員会(CC=略称チンコム)が設置された。日本は、講和発効後の1952年11月14日、ココム加盟を承認された。
アメリカ議会は、1951年5月、戦略物資を共産圏に輸出した国には軍事的経済的援助を停止するというケム議員の提案を採択した。このケム条項には西ヨーロッパの同盟国の批判が強いとみて、アメリカ国家安全保障会議は発効停止措置をとった。
議会は、ケム条項に代わるものとして、バトル議員の提案で対共産圏諸国輸出禁止措置を1951年10月に可決成立させた。バトル法は、やはり、兵器類、原子力関係資材、石油などの戦略物資を共産圏に輸出した国には軍事的経済的援助を停止すると規定した。
このような東西緊張激化による経済交流断絶の傾向を阻止し、東西貿易を発展させ、そこから緊張緩和への手がかりを得ようとする運動が組織された。1952年4月3~12日、東西の経済・貿易交流と平和運動の発展を目標に掲げてモスクワ国際経済会議が開催された。
この会議の発起人の一人である中国人民銀行総裁南漢宸は、1951年12月、日本の経済人、政治家、学者などに参加を呼び掛けた。
これに応じて、石灰湛山、北村徳太郎(親和銀行頭取、のちに改進党の衆議院議員)、鮎川義介(日産コンツェルンの創業者、にちの改進党の衆議院議員)、村田省三(大阪商船会長)、安川第五郎(安川電気社長)、箕浦太一(日産重工社長)などが、1952年1月27日に国際経済懇談会を結成した。
南・・は、国際経済懇談会にたいしてモスクワ会議ではアジア地域における貿易と経済協力の発展について日本代表と協議したいという意向を伝えてきた。石橋らは代表派遣のための旅券交付を申請したが、外務省は、ソ連には抑留日本人が多いこと、日本に不利益な行為を行う危険があることを理由に交付を拒否した。
しかし、高良とみ(参議院議員、緑風会)、帆足計(全参議院議員、同)、宮腰喜助(衆議院議員、改進党)の4人は西ヨーロッパを経由してモスクワにはいり、さらに北京を訪問して、南漢宸(このときは新設された中国国際貿易促進委員会の首席)ら中国側代表と会談し、6月1日、日中民間貿易協定に調印した。
最初の日中民間貿易協定である。輸出・輸入はそれぞれ3000万英ポンドとし、輸出・輸入品目をそれぞれ甲・乙・丙の三種類の分類して各種類別の比率をきめ、物々交換により各種類ごとに輸出入の均衡を図るというバーター(物々交換)方式が採用された。
日本からの輸出の甲類には鋼材、アルミニウムなどの金属材料が、乙類には紡績機械、汽船、機関車、起重機、その他の機械類が、また丙類には農業機械、自転車、綿糸、その他が含まれていた。
日本の輸入の甲類には、石炭、大豆、マンガン、鉄鉱石などが、乙類には塩、綿花、羊毛、ボーキサイト、その他の原材料が、また丙類には綿実粕、豚皮、その他が含まれていた。
種類別のバーター方式が採用されたのは、バトル法やチンコムの規制のために真に中国が必要としているものが日本から輸出されず、日本ン側だけが必需物資を入手するという結果になっては不公平だからである。
高良、帆足、宮腰の結んだ協定にたいしては、日中貿易促進会、日中友好協会などで結成した日中貿易促進会議のなかの共産党系の活動家が「公式の代表でなく個人的行動だ」として不支持を表明するなど複雑な反応が起こったが、アメリカと吉田内閣の対中国禁輸政策のため、日本からの輸出が協定をはるかに下回り、中国側は繰り返し不満を表明した。≫
◆ 「太平洋の時代」は終わった
現在においても、そうですが、経済活動に政治が介入すると、「ろくな結果」しかもたらしません。
経済は「生き物」であり、人間の手で勝手に動かすことが出来ないからです。
特に今日のように社会の仕組みや、生産構造が複雑化すると、尚更のことです。
ヘタに政府が介入すると、順調にいっているものさえ、壊わしかねません。
ここに張り付けたように、アメリカとの貿易は急速に低下し、東アジアとの貿易が急速に拡大してきています。
東アジアとは、もちろん、「中国のこと」。中国が代表しています。
今や、日本にとって、最重要相手国は、中国なのです。
しかも、米国と違い、中国とは地理的に近接しており、物流の点でも、「安上がり」です。
今や、「太平洋の時代」は終わった、といっても良いと思われます。
これからの日本列島は、「裏日本」が「表日本」になる時代が到来した、といっても過言ではない、と思います。
もはや、アメリカ一辺倒では、日本は、世界から取り残される。
そういう認識に立つ必要がある、といえると思います。
※ 明日、もう一回中国との関係を観ます。
そのあとは、日韓関係を観て、その後、沖縄、小笠原問題と、観ていきます。
そして、「安保条約の改定」へと進んでいく予定です。
いよいよ、安倍首相のおじいさんの「岸信介」の登場です。
(2015年10月26日)
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