これで「政治が変わる」訳が、ない。若者の消極的な姿勢の問題ではないと思うが、そのように「教育」され来なかったことにも、問題があると思う。
若者の約半数が、選挙における投票を、「個人の自由」と、回答した。
◆ 若者の半数が「個人の自由」=東京新聞
≪二十代の若者の約半数が投票は「個人の自由」と考えていることが、総務省関連の財団法人「明るい選挙推進協会」の全国調査で分かった。年齢が高くなると「自由」は減り、「国民の義務」とのとらえ方が増加。投票に対する若者の消極的な姿勢が浮き彫りになっている。
二〇一四年十二月の衆院選に関する調査で、今年三~四月に全国の有権者三千人を対象に郵送で実施。投票について、自身の考え方に近いものを「国民の義務」「権利だが棄権すべきではない」「投票するしないは個人の自由」「分からない」から選択した。≫
◆ 日々の生活の中にこそある
「権利だが棄権すべきではない」という「設問」は、意図的なものを感じる。
同じ党なら「権利だが、投票する竹刀は、個人の考え」とでも、するべきではないか。
そうでなければ、「権利だが、棄権する」と考えている人は、選択に迷うだろう。
それにしても、若者の半数近くが、「投票するしないは個人の自由」と、考えているとは。これでは、到底、日本は民主国家とは言えず、「お寒い」ばかりである。
これは、何よりも、学校教育が、政治教育を怠ってきた結果である、と思う。中学校、高等学校を通じて、生徒に政治をしっかりと学ばせる事をしなかった、結果であると思う。
たんに、テストの点や、上級学校に進学するためだけの「学習」しか、「指導」しなかったからであると思う。
そして、それは、「政治権力からの要請」であったように思える。「知らしめるべからず。依らしめるべし。」という江戸時代から、「めんめん」と続く、「為政者」の要請に基づく結果のことであると思う。
政治を「何か、お上(かみ=役人)から与えられたもの」であるかのように「思わされてきた」からである。庶民には、関係がない「政(まつりごと)」と思わされてきた、からである。
そしてそれは、別の面から見れば、我々民衆が自らの手で、「民主主義」を手に入れようと努力をしてこなかった結果である、ともいえる。
憲法に「民主主義」的規定があれば、それで、民主主義が実現する、と勘違いをしてきた結果であると思う。
だが、本来、民主主義は、「そこにある」ものではなく、それを「わが物」とするために闘い続ける、「日々の生活の中にこそある」、ということを、忘れてはならない。
それが、偉大な政治学者、丸山真男が、我々に残してくれた「知恵」である。
(2015年10月25日)