2015年10月20日火曜日

保守合同がもたらす「自民党の誕生と、戦前への回帰」

<web上「読書会」 正村(19)>の投稿です。
今日から、また、国内の歴史に戻ります。
1955年の保守合同による自民党の誕生は、「戦前への回帰。平和への失速の始まり」
でした。


以下、ここでは、「憲法調査会法案」、「教育改革法案」を中心に見ていきます。

このころから、徐々に、政治の「揺り戻し」が始まってきます。それは、政治の「右傾化」といっても、よいでしょう。


◆ 保守合同は、日本の政治をどう変えていったか

≪・1955年11月の保守合同で保守系議員の大部分は自民党に結集した。
鳩山内閣はいったん総辞職し、11月22日に改めて首班指名を受け、第三次鳩山内閣を組織した。外相重光、蔵相一万田、農相河野、通産相石橋。経済企画庁長官高崎など主要な閣僚は留任し、一部に旧自由党系の政治家が参加した。

鳩山内閣が「経済自立5か年計画」を閣議決定したのはこの時期である。

自民党結成大会では総裁が決まらず、4人の総裁代行を選出した。総裁には鳩山か緒方が予想されが、緒方は1956年1月28日に急死した。1956年4月5日の自民党大会では鳩山が489票中394票を得て初代総裁に選出された。

保守合同で国家の安定多数を獲得し、さらには自民党内多数派を獲得した鳩山内閣は、内外両面で積極的対応を試みた。

1956年1~2月、鳩山は、国会の答弁で「軍備を持たない現行憲法には反対である」、「自衛のためなら敵基地を侵略しても良い」などと発言し、社会党に攻撃された。いずれも後で取り消したが、鳩山内閣の防衛問題に対する姿勢が示された。

2月11日、自民党幹事長岸信介らが議員提案として憲法調査会法案を提出した。憲法改定の発議は当面不可能であったが、改定の基礎となる調査研究は進めようという意図である。

同法案は5月16日に国会を可決成立し、政府が調査会員を任命した。社会党は欠席し、自民党17人、緑風会2人、学識経験者17人という構成で1957年8月から審議を開始した。

憲法調査会が改正論(多数派)と改正不要論(少数派)を併記した最終報告書を提出したのは池田隼人内閣時代の1964年である。

政府は、3月1日、国防会議構成法案を国家に提出、6月3に可決成立させた。


・鳩山内閣は、教育制度の変更にも力を入れ始めた。
すでに吉田内閣のもとで、保守勢力は、戦後の改革を修正する性格をもった教育政策を、順次、実施してきた。

1950年10月、文部省は「日の丸」と「君が代」の斉唱を全国に通達した。「「日の丸」と「君が代」は軍国主義を鼓吹するために利用されたという経験から、復活についおい反対があった。

同じ時期に吉田ないっかうの分相天野貞祐は、「教育勅語」(明治天皇、1890[明治]、戦前・戦中にすべて学校で奉読された)に代わる要綱を考慮中と語り、修身科を復活したいと発言した。

1951年1月、教育課程審議会は修身科復活の反対の答申を行ったが、文部省は、1951年以後、道徳教育導入の方針を推進した。1951年11月、政令諮問委員会が教育制度の改革を答申し、教育委員の任命制、文部省に標準教科書作成などを提案した。

1953年10月、池田隼人は、MSA(アメリカの相互防衛援助法)による対日援助問題の協議のため吉田首相の特使として訪米し、ロバートソン国務次官補と会談したさい、憲法による再軍備の制約を述べるとともに「占領軍による平和教育の徹底のために再軍備にたいする政治的社会的制約が大きくなっている」と発言した。

これにたいし、ロバートソンは、「自衛の観念を日本に育ててほしい」との希望を表明した。同月、政府は教員の政治的活動制限法制定の方針を決定した。

同年12月、文部省初等中等教育局長は、ひそかに「偏向教育」の事例調査を都道府県教育長に通達した。すでに第8章で触れたように、1954年にはいわゆる教育二法案が提出された。

「義務教育諸学校における政治的中立の確保に関する臨時措置法案」と「教育公務員特例法の一部改正法案」である。これらの法案は同年5月に可決成立した。

同年7月、全国市町村会が地方教育委員会の廃止を文相に要望した。8月、全国都道府県教育委員会協議会がこれに反対を表明した。

第三次鳩山内閣成立後の1956年3月、政府は新教育委員会法案と教科書
法案を国会に上程した。

新教育委員会法案は、正式委は「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」と呼ばれた。1948年の教育委員会法を廃止し、教育委員の住民による公選制を県知事や市町村長の任命制に改め、権限の縮小を図るものであった。

教科書法案は、個々の学校や教師による教科書選定をやめ、広域的な「採択地区」ごとの教科書選定協議会により教育委員会が選定するものとすること、教科書発行者登録制にすることなどを規定していた。


◆ 「平和への失速」

案内がおくれたが、この『戦後史』は、1985年に発行された本である。ソ連が解体・消滅する前に、書かれた。したがって、1985年の時点に立脚して、すべての事柄が評価されている。

また、この著者の姿勢は、理論的な記述より、事実を重要視する立場をとっている。

そのため、時に年表を読んでいるかのような錯覚に陥ることがあるが、それは、もともと、事実をもって語らせる、という手法を用いているからである。

歴史をどう記述するかという問題は、さておいて、著者のこの姿勢は、私にとってはありがたい。

ともすると、「小説を読んでいるかのような」歴史書も見かけることがある。
それはそれで「面白い」が、まず事実を知らないことには、始まらない。

もちろん、「事実そのものをどう取り扱うか」という問題があることは、承知しているが。


さて、ここの書き写した「箇所」を読んで頂ければわかると思うが、この頃から、「戦前への回帰」が始まりだした。

そう評価できると、思う。
いわば、このころから、「平和への失速」が、はじまった、というである。

そして、「平和への失速」は、このたびの安倍政権がおこなった「安保法」で、さらに、加速されることになった。

後世の人々は、そう記述することだろう。

(2015年10月20日)

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