2015年10月25日日曜日

当然の動きであつた「戦後日本の課題『国交回復と対中国貿易』」

<web読書会 正村(24)>です。
今日は、日中貿易に関する内容をお届けします。日本は、戦前から中国との貿易を盛んに行っていました。戦争に負けた後、日本の社会が落ちついてくると、再び、この気運が盛
り上がってきました。


それは、当然の動きであった。といえるでしょう。もともと、日本の国民は、中国との戦争を望んではいなかったのであり、日中戦争は「軍部の暴走」で拡大していったのですから。

それは、「斉藤隆夫の反軍演説」を観れば良く解ります。


 「日中貿易」と、朝鮮戦争

朝鮮戦争勃発以前には、中国革命の進行にもかかわらず日中貿易の可能性があった。内戦の結果、中国共産党の指導の下に、清朝崩壊後はじめて中国全土の政治的統一が再建され、社会主義経済建設が準備されていた。

それだけに日中貿易の潜在的な可能性は大きくなっていた。アメリカも、この時期には、蔣介石支援政策の誤りを認め、北京政権の承認を準備しつつあった。当時なおアメリカの占領下にあった日本にとっても対中国貿易拡大の条件は十分にあったのである。

日本は、戦前、中国大陸から大量の資源を輸入し、多くの工業品を輸出していた。もちろん、当時の対中国貿易は日本による中国の支配と収奪の要素を強く示していた。

そうした関係の再現は許されるはずがなかった。しかし、両国の資源保有と産業構造の相互補完的な性格を考えても、また両国が地理的にも近接しているという利点を考えても、戦後の新しい条件のもとで、平等互恵の原則に基ずく日中貿易と日中経済協力を拡大する可能性は大きいと考えられた。

実際に、中国における内戦の帰趨がほぼ明らかになった段階で、早くも日本の産業・貿易関係者は日中貿易への期待をもっていた。

他方、革命後の新中国との友好関係関係確立に関心をもつ政治家、知識人、労働関係者なども、貿易を契機に両国の交流を発展させることを考え、日中貿易に注目しはじめた。

共産党も日中友好運動の政治的な重要性に着目し、多数の党員がこの運動に献身した。1949年5月、中日貿易促進会と中日貿易促進議員連盟(のちにいずれも中日は、日中と改称)が結成された。

議員連盟には超党派的に310余人の国会議員が参加した。世話人には、志田義信(民主自由党)、苫米地義三(民主党)、帆足計(緑風会)、水谷長三朗、和田博雄(社会党)、堀真琴(労農党)、野坂参三(共産党)が選ばれた。

同年6月には、日産重工社長箕浦多一などが、政治とのかかわりを避けて経済界の人びとだけで日中貿易教会を結成した。10月1日に中華人民共和国が宣言されたが、その直後の20月10日には日中友好協会設立準備会が開かれた。

1950年3月、アメリカ国務省は日本の対中国貿易を許可するとの方針を決定し、日本側関係者はGHQにたいして中国への輸出品のリストを提出した。

日中貿易促進会は、占領下の困難な条件下にありながら新中国の貿易担当者との連絡に成功した。香港のイギリス商社の仲介とイギリス船の使用を条件に、大豆や開?(地名ですが、読めませんでした。)の石炭などを輸入するという話が固まった。

1946年の内戦時代に山東省青島から塩を輸入していた一商社は、革命後の中国との契約に成功し、1950年8月に塩を輸入した。

しかし、1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、秋には中国軍の介入が明らかになった。アメリカ政府は12月6日、対中国輸出の全面的禁止の方針を決定した。

産業界や保守派の政治性勢力のあいだでは日中貿易に関心をもちながらも日中友好運動は共産党の画策と見て警戒する空気が強かった。朝鮮戦争の開始と共産党の武力革命方式への転換により、こうした反共産主義の立場からの日中友好運動批判が強くなった。

日中友好協会の結成大会は、1年目の「国慶節」にあたる1950年10月1日に開催され、全国22都道府県の支部代表と、政党、労組、学会及び文化界、貿易団体などの代表が参加した。

政治家も、自由党の水田三喜男、自由党の和田博雄など幅広い参加が実現された。しかし、GHQは、日中友好協会を共産党の別動組織とみて干渉した。

日中友好協会は、香港経由の国際郵便で中国の出版物を入手し、配布していたが、1950年11月、占領政策違反だとして大阪支部で4人が逮捕され、軍事裁判にかけられた。≫


 日本の国民、一人一人の課題

ここでは、1950年代の前半に時代を扱っています。従て、日本が自由に政治を行うことが出来ない時代を含んでいます。

まだ、米軍の占領下にあったからです。GHQの移行には、逆らうことが出来なかったのでした。

それにしても、戦争終結後から、早くもこの四動きが出てくるのは、いかに日中戦争が馬鹿げた戦争であったかということを、証明するものでしょう。

その馬鹿げた戦争のためにおおくの犠牲を払うことになり、今日においてもなお、それは清算できていません。

このことは、現在の日本にとって、今なお、最大の課題である、といえると思います。

それは、政府だけの問題ではなくて、我々日本の国民、一人一人の課題でもあります。

そうすることで、日本と中国との「確執」が、真の「友好」へと変換され、転化されて、両国の将来に明るい展望をもたらすことになる、と思います。

(2015年10月25日)

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