2015年10月10日土曜日

平成の「滝川事件」だ 国立大学への文系学部の再編「通達」 

文科省の役人に、「エルボー・スマッシュ」をきめた。
馳文科相に就任した馳氏が、「繰り出した」プロレス技である。
私は、この国立大学への文系学部の
再編という「通達」は、平成の「滝川事件」である、と考える。

馳文科相は、文系学部の再編を求めた文部科学省の「通達」を、「32点だ」、と切り捨てた。


◆ 『読売新聞』の記事より

≪国立大学に文系学部の再編を求めた6月の文部科学省の通知について、馳文科相は9日の閣議後記者会見で、「あの文章は、私が国語の教員だったら32点ぐらいしかつけられない」と苦言を呈した。
 馳文科相はプロレスラーになる前、実際に高校の国語教師だった。
 ただ、国立大に改革を求める趣旨は変わらないとして、「通知は撤回しない」との考えも示した。
「32点」と、中途半端な「点数」をつけたところが、また、御愛嬌だ。
私なら「キリのいい」ところで、「30点」にする。

それとも、30点が、「赤点」ということなのか。
そういう意味であるのか。

もしそうなら、馳氏が言いたいことは、要するに、「”落第”ぎりぎりの作文」である、ということになる。

◆ 日本経済新聞でさえ、社説で「ドロップキック」

この通知には、日本経済新聞でさえ、「噛みついて」いる。7月29日に次のような記事を掲載した。

≪通知のなかで文科省は「各大学の強み、特色、社会的役割を踏まえた速やかな組織改革を」と注文をつけ、特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」とした。
・・・・略・・・・ 
かねて文科省は国立大に、旧態依然たる横並びから脱し、グローバル化や大学ごとの特色を出すための取り組みを求めてきた。その方向性自体は理解できる。
 しかし今回、人文社会科学だけを取り上げて「廃止」にまで踏み込んだのは明らかに行き過ぎである。文科省は「廃止」に力点は置いていないと釈明するが、大学側への強い威圧と受け止められても仕方があるまい。≫
私は、日本経済新聞については、「政府寄り」の新聞である、という判断をしている。その「日経」でも、「『廃止』にまで踏み込んだのは明らかに行き過ぎである」と、断じて、安倍政権を批判している。

当然の判断だ。
まったく、正しい、見解である。


◆ 平成の「滝川事件」

さらに、日経の社説は、重要な点に言及している。
≪通知にある「社会的要請」とはそもそも何か。実学的なスキル育成だけでなく、歴史や文化を理解する力、ものごとを批判的に思考する力を持つ人材を育てるのも大学の役割ではないか。そうした機能を失った大学は知的な衰弱を深めるに違いない。≫
「実学的なスキル育成だけでなく、歴史や文化を理解する力、ものごとを批判的に思考する力を持つ人材を育てるのも大学の役割ではないか。」と指摘は、的確な判断である。この指摘は、重要だ。

この「社説」には、敬意を表したい。

今回のノーベル賞で、日本の理系の学者や研究者が、賞をもらった。文科省は、これに「勢いづいて」ますます、文系の学問を軽視する方向へ加速することになるだろう。


また、これは、「通達」だけを取り上げるのではなく、安保法制との関連で観る必要がある。

戦前に、「滝川事件」と言われている、有名な事件が起きた。

これは、軍部による「学問弾圧」事件の、出発点になった事件である。
この事件以後、軍部や政府は、大学への、学問への弾圧を、いっそう、強めていくことになる。

今回の、文科省のこの通知は、平成の「滝川事件」である。
私は、そう思う。


 「杯一杯」の水から、大河の流れを識(し)る

その昔、中国においての話である。

孔子はかっての弟子の子路(しろ)に「蕩々(とうとう)たる揚子江も、その源流は『濫觴(らんしょう)』、つまり杯を濫(うか)べるほどの細流である」と教えた。

小さな小川を見ても、それが下流で大河になると、誰が識(し)ることができるだろう。誰が予測できるであろうか。

この「通達」を読んで、どれだけの大学の関係者が、国民が、今後起きるであろう「出来事」を、想像することが出来るだろうか。

だが、「考えられないことを考える」というのが、危機管理のうえでの「鉄則」である。「しまった。あの時に、反対しておけばよかった」では、遅すぎるのである。

これを皮切りにして、安倍政権は、大学への、学問への、「弾圧」をますます強めていくことになるだろう。

私は、そう予測する。

(参考文献:小室直樹著『日本人のための憲法原論」集英社刊

(2015年10月10日)