<web「読書会」 正村(21)>です。今日は、日ソ交渉を取り上げます。
「北方領土」問題が、中心になります。「領土問題」を考えるときは、「ポツダム宣言」
を抜きにしては、語ることが出来ません。
日本は、この「ポツダム宣言」を受け入れて、降伏したからです。
ポツダム宣言は、日本の領土を、「北海道、本州、四国、九州」に限るとあります。
それ以外の、島々は、「ポツダム宣言」を作った国々の決定に従う、と書いてあるのです。ここを忘れては、すべてが、「ごちゃごちゃ」になってしまします。
さて、この交渉での「キーマン」は、重光葵。
戦前、東條英機内閣や小磯国昭内閣において、外相の地位にありました。
この重光の「優柔不断さ」が、日ソ交渉を「ぶち壊」してしまいます。
◆ 「ポツダム宣言」を忘れた、日本
≪1955年9月以後中断していた日ソ交渉は、ソ連側の交渉再開の要請に応じて、第三次鳩山内閣成立後の1956年1月17日にロンドンの松本全権大使とマリク全権のあいだで再開された。
しかし、外相重光が早期妥結反対論であるうえに自民党成立後に鳩山の与党になった旧自由党系に反対が強かったため、交渉の継続は困難であった。
松本全権は、自由民主党の討議に従い、「エトロフ、クナシリ(南千島)、ハコマイ・シコタンは無条件返還を要求する」、「南樺と千島(北千島)の帰属は旧連合国の決定に従う」という前回と同じ提案を示した。
マリク全権も、「ハコマイ・シコタンは日ソ平和条約発効時に日本に返還する」、「南樺太と千島(南北千島)はソ連の帰属とする」という主張を繰り返した。3月20日には交渉が行き詰まり、以後は無期限休会状態となった。
翌3月21日、モスクワ放送は「北洋におけるサケ・マスの保護のため、日ソ間で適当な協定が締結されるまで、漁労の制限地帯と制限期間を設ける」というソ連政府決定を発表した。
鳩山内閣はロンドンの松本に訓令し、ソ連の措置は国際法違反であり、日本側の乱獲の事実もないとマリクに申し入れさせた。
4月9日、マリクはイギリス駐在大使西晴彦にソ連は日本と漁業問題で協議の用意があると伝え、日ソ漁業協定が成立しなければソ連は北洋におけるサケ・マス漁業の制限措置を緩和するつもりはないと述べた。
サケ・マス問題を武器として交渉を強要したのである。鳩山は農相河野一郎をモスクワに派遣することにした。河野は、7月末までに日ソ国交回復交渉を再開することを条件として、5月14日、日ソ漁業条約と海難救助協定に調印した。
これらの条約と協定は日ソ国交回復と同時に発効することが約束された。
(参議院選挙で、野党が33.5%を占め、憲法改正の発議は遠のいた)・・・
鳩山内閣は日ソ交渉再開のための全権の選任に苦慮した。結局、重光外相自身が全権委員として松本全権とともにモスクワに赴くことになった。日ソ交渉は、日本側全権とソ連外相シェピーロフらのあいだで7月31日から再開されたが、領土問題で両国の主張は平行線をたどった。
重光は交渉妥結のため譲歩もやむを得ぬと判断し、「ハコマイ・シコタンの平和発効時のソ連から日本への譲渡、クナシリとエトロフの返還要求は撤回するが平和条約には帰属を明示せず、実質的にソ連領とする」という提案をソ連側に示した。
ソ連側は、ソ連案以外の解決はないと主張し、重光と面会したフルシチョフも同じ主張を繰り返した。重光はさらに軟化し、ソ連案受諾を鳩山内閣に請訓した。臨時閣議はソ連案受諾反対を決め、重光に交渉を中断させた。
重光はロンドンでのスエズ運河問題の国際会議出席を理由にモスクワを離れた。
鳩山はみずからモスクワに出かけて日ソ交渉をまとめる決意を固めていた。9月、鳩山は、平和条約方式を放棄し、日ソ両国による戦争終結宣言方式による国交回復を提案し、7日の閣議はその方針で鳩山が訪ソすることを了承した。
池田隼人らの反主流派は、鳩山が訪ソすればソ連提案による妥結以外の道はなくなるとして反対した。反主流派は日ソ交渉の挫折による鳩山内閣の崩壊を期待していた。
9月7日(日本時間で8日)、アメリカ国務省は日ソ交渉に関する覚書を中米大使谷正之に手交した。≫
◆ 重光の責任
重光は、戦前には、「(欧州戦争に)日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電していました。
しかし、日本政府は聞き入れず、1940年(昭和15年)9月27日、松岡洋右外相が日独伊三国同盟を締結します。
これが、アメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまう原因になりました。
太平洋戦争が始まって日本が、東南アジアの欧米の植民地を占領したときには、「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と、のべています。
東條内閣にいたときは、大東亜省設置に反対。しかし、東條首相のブレーンとして自らの主張を実現するため、1943年11月の大東亜会議を開くために奔走します。
そして、人種差別をなくし、アジアの国々が互いに自主独立を尊重し、対等な立場での協力を、志向しました。
この「行動と思想」においても、重光の「優柔不断さ」が現れています。
そもそも、戦前に政権の中枢にあった重光が、戦後もまた、政権に返り咲いたということ自体が、「不思議」です。
これは、「戦争の検証」が、日本人自らの手で行われなかったことの「弊害」であると思います。
戦争の検証」を「連合国軍」に任せてしまったことの、結果であると思います。
※ なお、「アメリカ国務省は日ソ交渉に関する覚書」は、明日、取り上げます。
アメリカは、日ソ交渉が行き詰まることを望んでいました。
日本が、千島列島の帰属問題で、ソ連と「もめ続ける」ことを望んでいました。
「冷戦」がすでに始まっていたからでした。
★ この記事を書くにあたって、森田実氏のブログを参考にさせて頂きました。
(2015年10月22日)
「北方領土」問題が、中心になります。「領土問題」を考えるときは、「ポツダム宣言」
を抜きにしては、語ることが出来ません。
日本は、この「ポツダム宣言」を受け入れて、降伏したからです。
ポツダム宣言は、日本の領土を、「北海道、本州、四国、九州」に限るとあります。
それ以外の、島々は、「ポツダム宣言」を作った国々の決定に従う、と書いてあるのです。ここを忘れては、すべてが、「ごちゃごちゃ」になってしまします。
さて、この交渉での「キーマン」は、重光葵。
戦前、東條英機内閣や小磯国昭内閣において、外相の地位にありました。
この重光の「優柔不断さ」が、日ソ交渉を「ぶち壊」してしまいます。
◆ 「ポツダム宣言」を忘れた、日本
≪1955年9月以後中断していた日ソ交渉は、ソ連側の交渉再開の要請に応じて、第三次鳩山内閣成立後の1956年1月17日にロンドンの松本全権大使とマリク全権のあいだで再開された。
しかし、外相重光が早期妥結反対論であるうえに自民党成立後に鳩山の与党になった旧自由党系に反対が強かったため、交渉の継続は困難であった。
松本全権は、自由民主党の討議に従い、「エトロフ、クナシリ(南千島)、ハコマイ・シコタンは無条件返還を要求する」、「南樺と千島(北千島)の帰属は旧連合国の決定に従う」という前回と同じ提案を示した。
マリク全権も、「ハコマイ・シコタンは日ソ平和条約発効時に日本に返還する」、「南樺太と千島(南北千島)はソ連の帰属とする」という主張を繰り返した。3月20日には交渉が行き詰まり、以後は無期限休会状態となった。
翌3月21日、モスクワ放送は「北洋におけるサケ・マスの保護のため、日ソ間で適当な協定が締結されるまで、漁労の制限地帯と制限期間を設ける」というソ連政府決定を発表した。
鳩山内閣はロンドンの松本に訓令し、ソ連の措置は国際法違反であり、日本側の乱獲の事実もないとマリクに申し入れさせた。
4月9日、マリクはイギリス駐在大使西晴彦にソ連は日本と漁業問題で協議の用意があると伝え、日ソ漁業協定が成立しなければソ連は北洋におけるサケ・マス漁業の制限措置を緩和するつもりはないと述べた。
サケ・マス問題を武器として交渉を強要したのである。鳩山は農相河野一郎をモスクワに派遣することにした。河野は、7月末までに日ソ国交回復交渉を再開することを条件として、5月14日、日ソ漁業条約と海難救助協定に調印した。
これらの条約と協定は日ソ国交回復と同時に発効することが約束された。
(参議院選挙で、野党が33.5%を占め、憲法改正の発議は遠のいた)・・・
鳩山内閣は日ソ交渉再開のための全権の選任に苦慮した。結局、重光外相自身が全権委員として松本全権とともにモスクワに赴くことになった。日ソ交渉は、日本側全権とソ連外相シェピーロフらのあいだで7月31日から再開されたが、領土問題で両国の主張は平行線をたどった。
重光は交渉妥結のため譲歩もやむを得ぬと判断し、「ハコマイ・シコタンの平和発効時のソ連から日本への譲渡、クナシリとエトロフの返還要求は撤回するが平和条約には帰属を明示せず、実質的にソ連領とする」という提案をソ連側に示した。
ソ連側は、ソ連案以外の解決はないと主張し、重光と面会したフルシチョフも同じ主張を繰り返した。重光はさらに軟化し、ソ連案受諾を鳩山内閣に請訓した。臨時閣議はソ連案受諾反対を決め、重光に交渉を中断させた。
重光はロンドンでのスエズ運河問題の国際会議出席を理由にモスクワを離れた。
鳩山はみずからモスクワに出かけて日ソ交渉をまとめる決意を固めていた。9月、鳩山は、平和条約方式を放棄し、日ソ両国による戦争終結宣言方式による国交回復を提案し、7日の閣議はその方針で鳩山が訪ソすることを了承した。
池田隼人らの反主流派は、鳩山が訪ソすればソ連提案による妥結以外の道はなくなるとして反対した。反主流派は日ソ交渉の挫折による鳩山内閣の崩壊を期待していた。
9月7日(日本時間で8日)、アメリカ国務省は日ソ交渉に関する覚書を中米大使谷正之に手交した。≫
◆ 重光の責任
重光は、戦前には、「(欧州戦争に)日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電していました。
しかし、日本政府は聞き入れず、1940年(昭和15年)9月27日、松岡洋右外相が日独伊三国同盟を締結します。
これが、アメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまう原因になりました。
太平洋戦争が始まって日本が、東南アジアの欧米の植民地を占領したときには、「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と、のべています。
東條内閣にいたときは、大東亜省設置に反対。しかし、東條首相のブレーンとして自らの主張を実現するため、1943年11月の大東亜会議を開くために奔走します。
そして、人種差別をなくし、アジアの国々が互いに自主独立を尊重し、対等な立場での協力を、志向しました。
この「行動と思想」においても、重光の「優柔不断さ」が現れています。
そもそも、戦前に政権の中枢にあった重光が、戦後もまた、政権に返り咲いたということ自体が、「不思議」です。
これは、「戦争の検証」が、日本人自らの手で行われなかったことの「弊害」であると思います。
戦争の検証」を「連合国軍」に任せてしまったことの、結果であると思います。
※ なお、「アメリカ国務省は日ソ交渉に関する覚書」は、明日、取り上げます。
アメリカは、日ソ交渉が行き詰まることを望んでいました。
日本が、千島列島の帰属問題で、ソ連と「もめ続ける」ことを望んでいました。
「冷戦」がすでに始まっていたからでした。
★ この記事を書くにあたって、森田実氏のブログを参考にさせて頂きました。
(2015年10月22日)
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