2015年10月13日火曜日

元々、消え去る運命であった「政治路線の違いで対立する”左右”社会党」 

<web上「読書会」 正村(12)>です。
社会党の再合同について、観ていきます。
このころの政治状況は、今の維新や民主の混迷と「そっくり」という気がします。





征服した国を統治する方法として、「分割統治」という考え方があります。

相手の側の力をそぐ目的で、「内部分裂」を起こさせるために、わざと、「ひとつの国家を二つ」に分けて、統治するやり方です。

今の韓国が、その「よい例」です。
朝鮮半島が二つの国によって、「統治」されたことにより、この「両国」は、同じ民族でありながらも、今もって、「いがみ」あっています。

それにしても、なぜ、両国は「自国の歴史」に学ばないのでしょうか。同じ言葉を話し、同じ料理を口にし、同じ歴史を共有しながら、どうして、いつまでも、「ひとつ」になれないのでしょうか。

よそ事ながら、気になります。


◆ 社会党の再合同

≪社会党の再合同は、1951年10月の分裂以来、早い時期から両派内部で議論されていた。国会内の少数派である社会党が分裂しているのは政治的に不利だった。しかし、合同には左右社のそれぞれに反対論があった。両社の政治路線には大きな差異があり、背景をなす社会思想にも根本的対立がった。

1954年1月21~23日の左社党大会は、労農派マルクス主義の立場で書かれた綱領草案を一部修正して可決した。原案は、日本における基本的対立は日本独占資本と労働者階級の対立であり、当面の革命は「社会主義革命」だと規定した。

これは1951年の日本共産党新綱領の「民族解放革命」路線に対抗するものだった。大会は民族独立闘争も重視するという修正案を加えたが、基本的には原案通り承認した。

左社の青年部やマルクス主義の団体である社会主義協会系の活動家は、両社合同は「左翼社会民主主義」の革命的立場の否定につながるとして反対した。しかし、委員長鈴木茂三郎らは反吉田・反再軍備のため国会で右社と共闘を組んだ。吉田内閣末期には社会党政権への期待から国会議員を中心に合同の動きが強まった。

総評の高野実は「国民総抵抗」の立場から労農派を含む合同を主張した。これはコミンテルンの人民戦線論以来の共産党の統一戦線術に属する考え方であった。しかし、労農派は容共的すぎるという反対論が左社にもあり、統一は容易ではなかった。

この時期の左社の伸長の一部には、衰退した共産党の代替物を求める左翼的勢力の期待が作用した。しかし、左社の支持者がすべてマルクス主義にもとづく革命政党を待望していたわけではなかった。

むしろ、自由主義・民主主義・と議会制度を前提として、保守・反動勢力の「逆コース」を阻止する強力な野党を期待する票が左社に多く集まったのである。


戦後改革の成果が国民のあいだに侵透するにつれて、また経済成長による産業構造の変化と農村の伝統社会の解体が進行するにつれて、自由主義・民主主義の価値や行動様式が国民のあいだに定着し、そうした立場からの社会党支持票が増大した。

戦後初期には、戦争の記憶や経済的困窮を背景として、マルクス主義イデオロギーや革命主義はかなりに支持を集めていた。しかし、経済成長が実現するにつれて国民のより多くの部分が議会制を重視する改革主義の立場に移行した。

社会党左社は、そうした変化を的確に予測することができず、その変化が現実に起こってからも事態を正確に把握できなかった。そのため情勢の発展にダイナミックに対応する事に失敗した。1050年代の社会党の成長は1960年代の発展へと容易に結びつかなかった。

社会党の再合同については右社にも賛否両論が存在した。総評高野指導部と対立して分裂の道を選んだ民労連(1954年4月に全労会議結成)系の活動家たちは、容共政治主義団体に変質した総評とは再統一できぬと主張した。

労働運動のこうした新潮流に依拠して右社独自の政治的基盤を確立しようと考えた日知人は、社会党再合同に反対した。いずれにせよ、右社では「左社容共性清算が統一の前提条件だ」とする意見が強かった。

このころ、右社内部では政治路線をめぐる対立が表面化していた。右社は、1951年に講和賛成・安保反対の態度のとり、両条約反対の左社と対立し、結局は分裂したのだが、その後、右社内では再軍備・安保条約も容認すべきだとする見解が強くなった。

これにたいしては、右社が吉田路線と同じ政策を掲げる結果になるし、「再軍備よりも生活保障を」という国民の感情からも遊離するという反対論が起こった。

1954年1月17~19日の右社党大会では、党内両派が運動方針案をめぐり対立した。西尾末広、曾、西村栄一、伊藤卯四朗などは、MSA再軍備の容認もありうるし、憲法改正にもあえて反対しない、また、「人民戦線的な護憲運動」には同調しない、という方針を唱えた。

委員長河上丈太郎や、浅沼稲次郎、河野密などは、軍事同盟反対、再軍備反対の立場をとった。大会は両派の修正案を共に否決したが、西尾らが反対した健保擁護国民連合委への参加は承認された。≫


◆ 社会的要因か、日本人の持つ「習性」のせいか

もちろん、我が国とて、韓国や北朝鮮を「笑ってはおれません」、日本も、同じような運命を背負う可能性があったからです。

それはかろうじて、回避することが出来ましたが、このころの社会の状態は、「日本を二分した」に等しいような状態ではなかったか、と思われます。

もちろん、「沖縄」は、取り残されままでした。
1972年(昭和47年)5月15日までは、沖縄は、米国の占領下にあったのです。

この時代を検証するときに、忘れてはならない「視点」であると思います。


それにしても、この時代の「政治状況」は、何と今の時代と似通っていることでしょうか。

それは、社会的な要因が作用してのことなのでしょうか。
それとも、日本人の持つ「習性」のせい、なのでしょうか。

もし、「習性」のせい、ということになると、「解決の方法がない」ようにも、感じます。

※ 次回は、「日ソ交渉」を取り上げます。

(2015年10月13日)

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