2015年10月23日金曜日

「日ソ共同宣言に合意なるも、千島返還問題は先送りに」 鳩山一郎内閣

<web「読書会」 (22)>です。
昨日に引き続き、日ソ関係を読んでいきます。
鳩山一郎内閣は、ソ連と「日ソ共同宣言」には合意に至りましたが、四返還問題は先送り
になりました。その結果、「平和条約の締結」をまとめることは、出来ませんでした。

「宣言」の正式名称は、「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」です。

ー前回の最後でふれたー、米国が日本に手渡した「日ソ交渉に関する覚書」の内容は、次のようなものでした。

① 日ソ間の戦争状態早く終結させる。そのためには、ソ連がサンフランシスコ
   条約をみとめるべき。
  ソ連の日本人捕虜は、解放されるべき。

② ヤルタ協定には、法的効力がない。
   日本の領土帰属問題は、国際的解決が望ましい。

③ 米国は、千島4島を日本固有の領土と考える。
   ソ連は、極東の緊張緩和にためにも、これに同意するべき。


◆ 「日ソ共同宣言」合意に

≪1956年10月7日、鳩山と河野が日ソ交渉全権として東京を出発、12日にモスクワに到着した。15日からブルガーニン首相らと本格的な交渉を再開した。河野はフルシチョフ第一書記と16日と17日の二回にわたって個人的に会談し、ハボマイ・シコタンの即時返還を実現すべく努力した。

フルシチョフは、即時返還の要求には応じなかったが、最終の段階で「平和条約締結後にハボマイ・シコタンを日本に引き渡す」ことを国交回復宣言に盛ることに同意した。

10月19日、日ソ共同宣言の調印がおこわわれた。日本側は首相鳩山一郎、農相河野一郎、衆議議員松本俊一、ソ連側は閣僚会議議長(首相)ブルガー二ン、最高会議(国会)幹部会員フルシチョフ、閣僚会議議長第一代理(第一副首相)ミヤコン、第一外務次官グロムイコ、外務次官フェドレンコが署名した。

骨子は以下のようなものであった。

(1) 両国の戦争状態は、共同宣言の発行と同時に終了し、平和・友好善隣関係が回復される。

(2) 外交および領事関係を復活し、大使を交換する。

(3) 両国は、国連憲章に従い、国際紛争を平和的手段で解決し、武力による威嚇またはその行使はおこなわない。

両国は、相手国の個別的または集団的自衛の固有の権利を認め、また、経済・政治・思想のいずれに関しても、直接・間接に相手国の国内事項には干渉しないとことを約束する。

(4) ソ連は日本の国連加盟申請を支持する。

(5) ソ連で有罪判決を受けた日本人は、共同宣言発効と同時に釈放され、日本に送還される。また、ソ連は、消息不明の日本人についての調査を継続して行う。

(6) ソ連は、日本に対する賠償請求権を放棄する。両国は1945年8月9日以降の戦争の結果生じた相互に対する請求権を放棄する。


(7) ソ連は貿易・海運・その他に関する条約または協定のための交渉を再開する。

(8) 共同宣言発効と同時に、1956年5月14日の漁業条約と海難救助協定も発効するものとする。

(9) 両国は平和条約締結の交渉を継続する。また、ソ連は平和条約締結後にハボマイ群島とシコタン島を日本に引き渡すことを約束する。

日ソ共同宣言と同時に、貿易の発展と最恵国待遇の許与を約束した通商航海議定書の調印も行われた。

1955年から1956年にまたがった困難な交渉にもかかわらず、ハボマイ・シコタンの即時返還の希望は消え、北方領土は日ソ間の外交問題として残された。

北方領土はかって多数の日本人が生活していた国土であり、北海道沿岸漁民の安全操業のためにも重要な意味をもっている。しかし、ソ連側はエトロフ島とクナシリを協商の対象とすること自体を厳しく拒否し、1980年代にはいった現在でも平和条約のための交渉への展望は開けていない。

鳩山は、11月1日にモスクワから帰国し、3地にの記者会見で引退を表明した。後継総裁(首相候補)を選ぶ自民党大会は、12月14日に開催と決まった。

11月12日~12月13日に鳩山内閣最後の臨時国会が開かれ、日ソ国交回復関係議案と期限の切れるスト規制法の無期限存続が審議され、いずれも可決された。

10月から11月にかけてハンガリーとスエズで動乱が発生した。重光外相は、11月16日、国会における外交演説で、英仏両国のスエズにおける国連無視の行動を非難すると同時にソ連のハンガリー弾圧を批判した。

日ソ共同宣言の議決は、衆議院は11月27日で全会一致、参議院は12月5日で賛成244、反対3であった。12月2日、東京で批准書の交換が行われ、直ちに発効した。

先に調印された日ソ漁業条約と海難救助協定もこの時に発効した。18日の総会は全会一致で日本の国連加盟を承認した。≫


 「ポツダム宣言」こそが、「原点」

その「日ソ平和条約」ですが、今日に至ってもなお、締結に至っていません。(外務省ホームページから)つまり、日本とロシアは、「戦争を終結させる」ことは出来たのですが、領土の帰属問題を「解決」することができずにいます。

しかし、これは考えてみれば、「おかしなこと」です。

なぜなら、「ポツダム宣言」には、日本の領土は、本州、九州、四国、北海道に限る。諸島は、「連合国の決定する島に限る」となっているからです。

米国は「ヤルタ会談」を持ち出していますが、日本が「降伏」を受け入れたのは、「ポツダム宣言」によってです。

ですから、「ポツダム宣言」こそが、すべてを決める基本になります。

ですから、ソ連は、日本との交渉で「妥協」をしなかったのです。

それは、日本側からすれば「不本意」でも、ソ連側からすれば「当然」のことである、と言うことになります。

ここに、日本とロシアとの交渉が「うまくいかない」、決定的な要因があります。

それは、中国との関係においても、同様です。

尚、付言すれば、「日米安保条約」も、「ポツダム宣言」から「逸脱」しており、宣言の精神を「蔑(ないがしろ)」にするものです。

(2015年10月23日)

0 件のコメント: