<web読書会 正村(29)>
今日は、沖縄・小笠原問題の所を読んでいきます。米国政府が「アメリカは永久に沖縄米軍基地を手放さない」のは、最重要拠点と考えていることにあります。
今、まさに、沖縄の米軍基地問題で、日本が揺れています。その「原点」は、ここにあります。
◆ アメリカは、沖縄を「永久に手放さない」
≪沖縄は、1945年4~6月の激戦のすえにアメリカ軍に占領された。生き残った県民の多くはアメリカ軍の収容キャンプで日本の降伏を聞いた。1946年1月29日、GHQは、北緯29度以南の諸島は日本本土から切り離し、アメリカ軍政下に置くことを指示した。
奄美諸島を含む南西諸島(鹿児島県)と小笠原諸島(東京都)もアメリカ軍の直接統治下に置かれた。小笠原諸島は、1945年2~3月にアメリカ軍が攻略した硫黄等を別として、日本降伏後にアメリカ軍が進駐したが、大部分の住民はすでに日本軍の命令で日本本土に疎開していた。
アメリカ軍は残留住民も強制的に本土へ移住させた。
・1946年月22日、アメリカ軍は、沖縄軍政府の補助機関として沖縄県人による民政府を発足させた。知事はアメリカ軍による任命制であった。同月26日、元沖縄県議会議員と軍政府任命の議員とで沖縄民生議会を発足させた。
この議会は知事の諮問に答申をするだけで議決権はなかった。1947年7月7日、沖縄の通貨はアメリカ軍のB型軍票に統一され、1972年の日本返還までこの通貨が使用された。1949年3月、民生議会はアメリカ軍の専横に抗議して全員が辞表を提出した。
・アメリカ政府は、沖縄は、当初、日本夫本土と事名r右民族の住む土地と考え、日本から切り離すのは当然と理解した。アメリカは、県民の日本本土と野路優奈往来w雄禁止した。
1947年10月には、当時まだ大陸にあった中国の蔣介石政権が沖縄の中国への帰属を要求した(1948年4月に撤回)
・アメリカ軍は、中国革命の進展、朝鮮戦争の勃発という事態の進行の中で、沖縄の基地を拡大強化した。
1950年春、GHQは沖縄基地の恒久建設を開始すると発表し、沖縄軍政府も「アメリカは永久に沖縄を手放さない」と言明した。
朝鮮戦争勃発後の同年9月、アメリカ国務省は、対日平和条約成立後も琉球諸島については国連信託統治の形でアメリカ支配を恒久化する可能性のあることを示唆した。12月、軍政府は、琉球列島アメリカ民政府と改称され、東京のマッカーサーが長官に任命された。
・沖縄県民のあいだで公選制の民営確立を目指す運動が起こり、また祖国復帰を目指す運動が発展した。沖縄県民のあいだには「独立」を目指すべきだという意見もあったが、アメリカ軍の支配の強化は日本復帰運動を強める作用をした。
沖縄県民は、アメリカ軍による弾圧に屈せず、ねばり強く闘争した。アメリカ側も、県民の不満を緩和するため、各群島ごとに知事と議員を公選させ、政府を組織させることにした。1950年11月4日、沖縄、奄美、宮古、八重島の4群島政府が発足した。
・サンフランシスコ講和会議を目前にした1951年8月、奄美大島で祖国復帰を要求するハンガー・ストライキが行われた。各群島政府知事と議会は、吉田首相、ダレス特使、講和会議議長に治して日本復帰要請の電報を打った。
サンフランシスコ平和条約では、日本は、沖縄、奄美、小笠原などの諸島をアメリカを唯一の施政権者とする信託統治制度のもとに置くこととする国連に対するアメリカのいかなる提案にも同意すること、また、国連に対するそうした提案が行われ、可決されるまでは、アメリカがこれらの諸島を統治することが規定された(第3条)
・1952年4月1日、琉球政府が発足したが、沖縄統治の最高機関であるアメリカ民政府の地位は変わらなかった。琉球政府主席はアメリカ民政府が任命した。
立法院議員については3月2に選挙が行われ、社会大衆党15人、人民党1人、無所属15人が選ばれた。主席には比嘉秀平が任命された。比嘉は、同年8月には保守系の民主党が結成されると、総裁に就任した。
・沖縄旧職員組合、社会大衆党、自民党などを中心に日本復帰運動は高揚していくが、アメリカ軍はさまざまな手段でそれを抑圧した。アメリカ軍は、農民の土地を強制接収し、基地を拡張強化した。
アメリカ兵による暴行事件、殺人事件なども多発した。・・・・・
・アメリカ占領下の日本では言論や報道は厳しく統制されており、沖縄などの実情は報道されなかった。講和発効後、現地の祖国復帰運動に呼応して日本本土でも復帰運動が形成された。
しかし、沖縄出身者の団体や革新系の団体が中心の運動で、国民の多数の関心を集めるまでに発展しなかった。吉田内閣は、基本的にアメリカの極東戦略に協力し、日本に有利な同盟関係を維持するという政策をとったから、この問題に関する対応を示さなかった。≫
◆ 「沖縄」は含まれていない
ダレス国務長官は、沖縄と小笠原は戦略的見地からアメリカが保持する」方針であることを日本側に通告しました。
アメリカは、沖縄と小笠原を自国の都合で、ーアメリカの国益を考慮して―手放す事を拒否したのでした。
戦後の日本がたどってきた道を追いかけて、―国内政治、保守合同、アジア情勢、沖縄など―ここまできました。
今の沖縄の現状を理解するには、今日読んできた内容の認識が欠かせません。
そのことに理解なしには、沖縄になぜ、今でも米軍が居座っているのかを理解できないと思います。
はたして、この「アメリカは永久に沖縄を手放さない」という米国の方針は、今も変わっていないのでしょうか。
もし、この方針を今でも変えないということであれば、そのことは、「ポツダム宣言」の精神に背くことになります。
安倍政権は、このことをオバマ政権に要求する「意思」があるのでしょうか。
安倍首相の「日本を取り戻す」という主張には、「沖縄」は含まれていないのでしょうか。
それで、「日本を取り戻した」というつもりなのでしょうか。
※ 次からは、岸信介政権の「安保条約の改定」について、集中的に、読み進めていきます。
(2015年10月30日)
今日は、沖縄・小笠原問題の所を読んでいきます。米国政府が「アメリカは永久に沖縄米軍基地を手放さない」のは、最重要拠点と考えていることにあります。
今、まさに、沖縄の米軍基地問題で、日本が揺れています。その「原点」は、ここにあります。
◆ アメリカは、沖縄を「永久に手放さない」
≪沖縄は、1945年4~6月の激戦のすえにアメリカ軍に占領された。生き残った県民の多くはアメリカ軍の収容キャンプで日本の降伏を聞いた。1946年1月29日、GHQは、北緯29度以南の諸島は日本本土から切り離し、アメリカ軍政下に置くことを指示した。
奄美諸島を含む南西諸島(鹿児島県)と小笠原諸島(東京都)もアメリカ軍の直接統治下に置かれた。小笠原諸島は、1945年2~3月にアメリカ軍が攻略した硫黄等を別として、日本降伏後にアメリカ軍が進駐したが、大部分の住民はすでに日本軍の命令で日本本土に疎開していた。
アメリカ軍は残留住民も強制的に本土へ移住させた。
・1946年月22日、アメリカ軍は、沖縄軍政府の補助機関として沖縄県人による民政府を発足させた。知事はアメリカ軍による任命制であった。同月26日、元沖縄県議会議員と軍政府任命の議員とで沖縄民生議会を発足させた。
この議会は知事の諮問に答申をするだけで議決権はなかった。1947年7月7日、沖縄の通貨はアメリカ軍のB型軍票に統一され、1972年の日本返還までこの通貨が使用された。1949年3月、民生議会はアメリカ軍の専横に抗議して全員が辞表を提出した。
・アメリカ政府は、沖縄は、当初、日本夫本土と事名r右民族の住む土地と考え、日本から切り離すのは当然と理解した。アメリカは、県民の日本本土と野路優奈往来w雄禁止した。
1947年10月には、当時まだ大陸にあった中国の蔣介石政権が沖縄の中国への帰属を要求した(1948年4月に撤回)
・アメリカ軍は、中国革命の進展、朝鮮戦争の勃発という事態の進行の中で、沖縄の基地を拡大強化した。
1950年春、GHQは沖縄基地の恒久建設を開始すると発表し、沖縄軍政府も「アメリカは永久に沖縄を手放さない」と言明した。
朝鮮戦争勃発後の同年9月、アメリカ国務省は、対日平和条約成立後も琉球諸島については国連信託統治の形でアメリカ支配を恒久化する可能性のあることを示唆した。12月、軍政府は、琉球列島アメリカ民政府と改称され、東京のマッカーサーが長官に任命された。
・沖縄県民のあいだで公選制の民営確立を目指す運動が起こり、また祖国復帰を目指す運動が発展した。沖縄県民のあいだには「独立」を目指すべきだという意見もあったが、アメリカ軍の支配の強化は日本復帰運動を強める作用をした。
沖縄県民は、アメリカ軍による弾圧に屈せず、ねばり強く闘争した。アメリカ側も、県民の不満を緩和するため、各群島ごとに知事と議員を公選させ、政府を組織させることにした。1950年11月4日、沖縄、奄美、宮古、八重島の4群島政府が発足した。
・サンフランシスコ講和会議を目前にした1951年8月、奄美大島で祖国復帰を要求するハンガー・ストライキが行われた。各群島政府知事と議会は、吉田首相、ダレス特使、講和会議議長に治して日本復帰要請の電報を打った。
サンフランシスコ平和条約では、日本は、沖縄、奄美、小笠原などの諸島をアメリカを唯一の施政権者とする信託統治制度のもとに置くこととする国連に対するアメリカのいかなる提案にも同意すること、また、国連に対するそうした提案が行われ、可決されるまでは、アメリカがこれらの諸島を統治することが規定された(第3条)
・1952年4月1日、琉球政府が発足したが、沖縄統治の最高機関であるアメリカ民政府の地位は変わらなかった。琉球政府主席はアメリカ民政府が任命した。
立法院議員については3月2に選挙が行われ、社会大衆党15人、人民党1人、無所属15人が選ばれた。主席には比嘉秀平が任命された。比嘉は、同年8月には保守系の民主党が結成されると、総裁に就任した。
・沖縄旧職員組合、社会大衆党、自民党などを中心に日本復帰運動は高揚していくが、アメリカ軍はさまざまな手段でそれを抑圧した。アメリカ軍は、農民の土地を強制接収し、基地を拡張強化した。
アメリカ兵による暴行事件、殺人事件なども多発した。・・・・・
・アメリカ占領下の日本では言論や報道は厳しく統制されており、沖縄などの実情は報道されなかった。講和発効後、現地の祖国復帰運動に呼応して日本本土でも復帰運動が形成された。
しかし、沖縄出身者の団体や革新系の団体が中心の運動で、国民の多数の関心を集めるまでに発展しなかった。吉田内閣は、基本的にアメリカの極東戦略に協力し、日本に有利な同盟関係を維持するという政策をとったから、この問題に関する対応を示さなかった。≫
◆ 「沖縄」は含まれていない
ダレス国務長官は、沖縄と小笠原は戦略的見地からアメリカが保持する」方針であることを日本側に通告しました。
アメリカは、沖縄と小笠原を自国の都合で、ーアメリカの国益を考慮して―手放す事を拒否したのでした。
戦後の日本がたどってきた道を追いかけて、―国内政治、保守合同、アジア情勢、沖縄など―ここまできました。
今の沖縄の現状を理解するには、今日読んできた内容の認識が欠かせません。
そのことに理解なしには、沖縄になぜ、今でも米軍が居座っているのかを理解できないと思います。
はたして、この「アメリカは永久に沖縄を手放さない」という米国の方針は、今も変わっていないのでしょうか。
もし、この方針を今でも変えないということであれば、そのことは、「ポツダム宣言」の精神に背くことになります。
安倍政権は、このことをオバマ政権に要求する「意思」があるのでしょうか。
安倍首相の「日本を取り戻す」という主張には、「沖縄」は含まれていないのでしょうか。
それで、「日本を取り戻した」というつもりなのでしょうか。
※ 次からは、岸信介政権の「安保条約の改定」について、集中的に、読み進めていきます。
(2015年10月30日)
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