2015年10月18日日曜日

第三世界におけるナショナリズムの登場の時代 1950年代

<メモ帳   正村(17)>の投稿です。今回は、中国の動きを中心にみていきます。また、このときは、 第三世界におけるナショナリズムの登場の時代でもあります。


中国は、「平和共存」政策を採用することで、第三世界の中立勢力を結集し、「アメリカ帝国主義」の包囲を弱め、国内経済建設に専念する、という戦略を取り始めました。


ほかには、エジプト革命とスエズ運河国有化についても、あらましをスケッチしておきます。


◆ 中国の「平和共存」政策

≪ジュネーブ会議で国際政治の表舞台に登場した中国政府代表は、インドシナ戦争の早期終結を希望した。中国も、北ベトナムもホーとともに、インドシナ戦争の継続がアメリカの介入を強め、朝鮮の二の舞になることを恐れた。インドシナ休戦協定の成立は中国に平和共存外交政策の成功でもあった。

1954年4月29日、毛沢東・周恩来の中国とネルーのインドとのあいだに通商交通協定が調印された。このとき中国は、領土と主権の相互尊重、相互不可侵、相互の内政不干渉、平等互恵、平和共存の「平和5原則」を提唱し、インドと合意した。

同年9月20日、中国では第一期全国人民代表大会が開催され、中華人民共和国憲法が採択された。国家主席に毛沢東、大会常務委員長に劉少奇、総理(首相)に周恩来が選ばれた。北京政府樹立後5年を経過し、国家の体制整備が行われたのである。

中国の指導部は、ソ連のスターリン批判の行き過ぎを批判しつつも、スターリン主義を是正する工夫を講じていた。1956年には、劉少奇や鄧小平が積極的な役割を演じ、毛沢東個人崇拝を是正し、官僚主義、セクト主義、主観主義を克服する「第二次整風運動」や「百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)」と称する言論統制緩和の試みを推進した。

しかし、「百花斉放・百花争鳴」は共産党や毛沢東にたいする予想以上に激しい批判を呼び起こしたため、共産党指導部は「反右派闘争」に転換し、毛沢東批判勢力を弾圧した。

毛沢東指導下の「大躍進」の失敗と毛の事実上の失脚後、1960年代半ばには毛沢東の復権闘争を契機とする「文化大革命」の極左路線が登場した。劉少奇や鄧小平らは失脚させられ、中国の経済と社会が大混乱に陥り、対外政策も閉鎖的・硬直的になった。

新中国において、1950年代半ばは中国共産党指導が内外両面で柔軟な対応を模索していた時期であった。中国の「平和共存」政策は、そうした模索の一環をなしていた。それは、第三世界の中立勢力を結集して「アメリカ帝国主義」の包囲を弱め、国内経済建設に専念できるという意図を含んでいた。

1955年4月18~24日、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議(AA会議)が改正された。ビルマ、セイロン、インド、インドネシア、パキスタンが共同主催国となりアジア(中東を含む)の23か国とアフリカの6か国が参加した。

カンボジア、ラオス、南北ベトナムの代表も参加した。中国代表は周恩来、日本代表は経済審議庁長官高橋達の助であった。AA会議は、経済協力、文化協力、人権と民族自決問題など広範な問題を討議し、「世界平和および協力の促進についての宣言」を採択した。


1950年代は第三世界におけるナショナリズムの登場の時代でもあった。
象徴的事件の1つはエジプト革命とスエズ運河国有化であった。

1952年7月、ナセルの指導するエジプトの将校団がクーデターを越して起こして王政を打倒した。ナセルは共和制を確立して大統領に就任した。ナセルは、ユーゴスラビアのチトー、インドのネルーとともに、非同盟政策を推進した。

アメリカ政府はナセルの非同盟政策に反対し、ナイル川上流のアスワン・ハイダム建設資金援助計画を撤回した。

1956年7月26日、ナセルはスエズ運河国有化を宣言した。10月29日、イスラエル軍のエジプト侵入と呼応して英仏軍がスエズ運河に進撃した。ハンガリーの動乱と同時期であった。

アメリカは英仏を非難し、ソ連は、侵略行為をやめなければロケット兵器の使用も辞さないと威嚇した。国連総会は、11月2日、アメリカ提出のスエズ即時停戦決議案を採択した(同年4月には、ハンガリー事件に関するソ連非難・ソ連軍撤退決議案を採択)。

イスラエルとエジプトが停戦に合意し、6日には英仏も国連警察軍の監視を条件に停戦に合意した。11月21日、国連警察軍がポートサイドに進駐を開始し、翌22日に英仏軍が撤退を完了した。

スエズ運河は一時使用不能になり、この運河を経由して中東の石油などを輸入している西ヨーロッパ諸国が大きな影響を受けた。≫


◆ 中東の人々の生活を蹂躙しつづける、米英ソ仏

この時代、早くも、中東の「火薬庫」が爆発した。

もし、石油がなければ、歴史の発祥の地、ということで、観光地としても、発展することが出来たであろうに、石油が出たばっかりに、「不幸な歴史」を経験することになっていく。

そして、それは、現在もなお、続いている。

米英ソ仏大国は、時には「ひっつき」、時には「離れ」ることを繰り返しながら、自国の利益のみの固執し、中東で「わが物顔」で跋扈(ばっこ)し、中東の人々の生活を蹂躙しつづけた。

今も、続けている。

※ 次回も、もう少し、国際情勢を見ていきます。

(2015年10月18日)

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