2015年10月17日土曜日

ホー・チ・ミン軍「フランス軍30万を殲滅、大勝利」

<メモ帳   正村(16)>を投稿します。
今日と明日の2回にわたって、「海外の動き」を観ていきます。今日は、インドシナ情勢です。1954年5月7日、ホー・チ・ミン軍がフランス軍30万を包囲し、これを殲滅。大勝利
を収めました。

これで、長きにわたるフランスのインドシナでの支配に、終止符が打たれることになりました。


◆ ジュネーブ会議

≪スターリンの死後のソ連・中国の平和共存路線は、東西関係にも変化をもたらした。

1953年7月には朝鮮休戦協定が調印されていた。同年12月4~8日、米大統領アイゼンハワー、英首相チャーチル(1951年10月総選挙で保守党が勝ち、労働党アトリー内閣に代わって第2次チャーチル内閣が成立した)、仏首相ラニエルが太平洋上のバミューダ島で会談し、インドシナ戦争終結のためソ連と協議することを決定した。

1954年1月25~2月18日、ベルリンで米英仏ソ4国外相会議が開催された。1949年5月のベルリン封鎖解除直後の外相会議以来4年8か月ぶりである。

ベルリン外相会議では、ドイツとオーストリアにたいする平和条約締結問題は未解決に終わったが、朝鮮とインドシナの問題を討議する関係諸国会議を4月にジュネーブで開催することが決定された。

1954年4月26日、ジュネーブ会議が開かれた。米英仏ソ4か国と、中国、南北朝鮮、インドシナ諸国を含む22か国代表が参加した。朝鮮問題は進展が見られなかった。インドシナ問題については、5月8日から関連9か国による実質的討議が行われた。

前日の5月7日、北ベトナム北西部のディエンビェンフーでホー・チ・ミン(ベトナム独立同盟)軍がフランス軍30万を包囲し・殲滅し、大勝利を収めていた。

ディエンビェンフー陥落はフランス政府に大打撃を与えた。アメリカのダレス国務長官らはフランス軍がインドシナにおける共産主義者の浸透を阻止するよう希望したが、その可能性は消えつつあった。

6月12日、ラニエル仏内閣は総辞職し、18日、マンデス・フランス内閣が成立した。マンデス・フランス新首相はインドシナ即時休戦をフランス国民に公約した。

7月20日、インドシナの休戦と独立に関する協定が調印され、翌21日にジュネーブ会議は閉会した。このジュネーブ会議で、カンボジアとラオスの独立とフランス軍撤退が決定された。ベトナムに関しては独立と統一のための2年以内の総選挙が約束された。

ベトナムは、北緯17度線でホー政権と(ハノイ)の北ベトナムとフランスおよびアメリカに支援されたゴ・ジン・ジェム政権(サイゴン)の南ベトナムに分割された。2年以内に総選挙というジュネーブ協定の約束を南側が無視し、分割が固定された。


アメリカ代表はジュネーブ協定に調印せず、独自に宣言を発表した。アメリカ政府はこの協定の実施の妨げとなる武力による威嚇やその行使はつつしむが、「この協定を侵害するような新たな侵略にたいしては、重大な関心を寄せ、これを国際平和と安全に重大な脅威を与えるものとみなす」という内容であった。

これはのちに北ベトナムの南ベトナムへの浸透を理由にアメリカが南ベトナムに深く介入する根拠とされた。アメリカ政府はインドシナ戦争を共産主義者の南ベトナムへの進出・侵透の動きとみていた。

アメリカは南ベトナム政府への援助を強化した。アメリカは、ベトナム解放闘争の民族主義的要素を過度に軽視し、共産主義的要素を過度に重視した。その結果、アメリカは、北ベトナムの支援を受けつつ反政府闘争を展開した南ベトナム民族解放戦線と全面的な戦争状態にはいっていった。


ソ連も中国もこの時期には西側との平和共存を真剣に追求し始めていた。しかし、アメリカ政府はスターリン体制下に形成された共産主義の政界戦略に対しる不振を払拭できず、ソ連・中国にたいする軍事包囲体制の強化に腐心し、共産主義運動の発展に武力で対決する政策を維持した。

ソ連の東欧支配、ベルリン封鎖、朝鮮戦争などはアメリカ国内の対ソ強硬派の台頭を促進し、アメリカの対外政策を硬直化させた。東西の接触が強まり、平和の空気が生まれたとはいえ、依然として軍備拡張競争と軍事同盟強化の動きが継続された。≫


◆ 今日の状況を造りだしたのは、米英ソ(=露)仏

ドイツ、朝鮮半島、ベトナムなどの例にみられる通り、欧米の指導者たちは、「バカのひとつ覚え」のように、「分割統治」というやり方を、国際外交の基本としてきた。

その結果が、今日の状況を造りだした、根本的な原因である。

今日、世界が今のように混迷した状態にある責任は、米英ソ(=露)仏などの国国にある。

そうであるのに、「民主主義を守るために」という理由で、中東やインドシナ半島などでの「傍若無人」の振る舞いを、いつになってもやめようとは、しない。

先日、また、米国のオバマ大統領は、アフガンの「駐留」を継続すると発表した。

その理由は、「アフガンの政府からの要請があったからだ」ということだ。
 
しかし、それは政府の要請であって、国民からの要請ではないであろう。

米国の「無人機」による攻撃で、多くの民間人が殺され、傷つけられた。

そのような中にあって、国民から、そのような「要求が出てくる」とは、到底思えない。

ここでも、国民の願いと全くかけ離れたところで、政治が勝手に決められ、アフガン国民の「運命」が蔑(ないがし)ろにされているのを、見ることが出来る。

「政治的大国」の勝手な思惑から、多くの尊い命が無残にも奪われ続けていても、「テンとして恥じない」指導者の姿を垣間見ることが出来る。

そのような状況にあって、今我々の出来ることは、一体、「どんなことがある」のであろうか。

(2015年10月17日)

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