2015年10月27日火曜日

中国残留者の帰国+“強制連行”された中国人の本国送還 1953年

<web読書会 正村(26)>「残念な歴史」である。
今回は、日中間の交流の広がりについて、読んでいきます。ここでのポイントは、中国残
留者の日本への帰国と、日本に強制連行された中国人の本国への送還などになります。

そして、民間レベルでの交流を「こころよく」思わない吉田首相や重光、外務省などの、日本の政府の「横やり」、「横暴さ」についてです。

そして、その「バック」には、米国の存在があった、という「からくり」についてです。


 日中交流の気運が高まる

≪現実の貿易拡大には障害があったが、民間貿易協定を契機に各方面の日中交流の気運が高まった。

1952年12月1日、北京放送が、中国政府は在中国日本人の帰国に協力する用意があると報道した。1年半前の1950年夏、日本赤十字社社長島津忠承は、モンテカルロでの赤十字連盟の会議に出席したさい、中国紅十字会長の李徳全女史に在留日本人帰国促進を要請した。

北京放送はその回答であった。1945年夏のソ連軍侵攻後の混乱や国共内戦などのため、多数の日本人が帰国の機会を失い、そのまま中国に残留していた。中国における残虐行為などの理由で戦争犯罪に問われ、服役している日本人もいた。

日本赤十字社、日中友好協会、平和連絡委員会の三団体は島津を団長とする代表団の派遣を計画した。政府は、当初は団員の一人高良とみの旅券発給を拒否したが、結局は世論の批判を恐れて渡航を認めざるをえなかった。一行は香港を経由して中国へ渡った。

・1953年3月5日、島津代表団と寥承志ら中国紅十字会代表団のあいだで日本人帰国の申し合わせが成立した。同年3月から10月までの7次にわたり約2万6000人が帰国、さらに1954年月から再開、1958年の第21次までに合計3万5000人の日本人が帰国した。

日本側三団体は、中国紅十字会の要請を受け、返礼を込めて、帰国を希望する在日中国人の帰国と戦時中に日本へ強制連行されて死亡した中国人の遺骨の送還などの事業を推進した。1953年6月、日本人帰国のために中国にへ向かう興安丸で第一陣の中国人551人が帰国した。

7月には中国人殉難者560人の遺骨が送還された。太平洋戦争中の1943~45年に中国から強制連行された中国人の数は約4万人過酷な労動と虐待によって死亡した中国人は約7000人といわれる。

こうした深刻な問題についての戦後処理を日本政府は行わず、殉難者の遺骨が放置されている場合も多かった。1958年2月に13年間隠れつづけていた劉連仁という中国人が北海道の雪の山中で発見された。

・1953年10月、自由党の衆議院議員池田正之助を団長とする訪中議員団が、中国側と第2次民間貿易協定を締結した。1954年8月、村田正蔵、石橋湛山、高橋辰之助、北村徳太郎、菅礼之助(東京電力社長)などの努力で、多数の企業の参加する日本国際貿易促進協会が設立された。

日本商工会議所会頭藤山愛一郎(のち外相、国促会長)、池貝鉄工社長岡崎嘉平太(のちの全日空社長、1960年代の「日中覚書貿易」の日本代表)などもこれに参加した。・・・・

・周恩来をはじめ、中国政府の指導者たちは、機会あるごとに日本の吉田内閣の日中交流にたいする妨害を非難し、その対米従属政策を批判すると同時に、平和と平等互恵の原則による両国関係改善の可能性を強調した。

1954年12月、吉田内閣が倒れ、鳩山内閣が成立すると、中国側はあらためて日中国交回復の可能性を強調した。1954年12月30日の『人民日報』の社説は、日中関係の阻害要因はもっぱら吉田内閣の対米従属と中国敵視政策にあったとし、また、日中国交回復のためにはアメリカとの関係を断つことが必要だという日本の一部にある反対論は誤りだと指摘した。

・1955年4月にバンドンのアジア・アフリカ会議に出席した周恩来は、演説の中で日本との国交正常化の用意があると発言した。周は、会議のあいだに日本代表高崎達之助(経済審議庁長官)および同顧問藤山愛一郎と会談した。

鳩山首相自身は日ソ関係と並んで日中関係に関心を表明し、重光外相も「双方が受け入れられる条件での国交の正常化」を口にしていたが、現実の政策は吉田内閣時代と変わらなかった。とくに重光外相と外務省は消極的であった。鳩山は、当面、日ソ打開に主力を注ぎ、日中関係に具体的対応策を打ち出すには至らなかった。

・1955年3月29日、中国国際貿易促進委員会首席代理雷任民らの使節団が第三次貿易協定交渉のため来日し、はじめて東京で貿易交渉が行われた。これにたいしても重光外相や外務省は消極的態度を示した。

当初は協力的であった経団連(経済団体連合会)も、アメリカが日中関係の発展に難色を示していることなどを考慮して手を引いた。雷団長らは、貿易代表部の設置、両国通貨による直接的決済、貿易不均衡の是正などを強く求めた。

いずれも日本政府の協力なしには実現不可能であり、交渉は難航した。5月5日にようやく調印された第三次協定は、これからの問題を今後実現のために努力すべき課題として記すにとどまった。≫



 政治家の「驕(おご)り」

今日でも、そうですが、政府は「民間に出来ることは、民間に」というながら、既得権益を手放すことを恐れて、結局は、民間レベルの「努力」を「つぶそう」とする傾向があります。

それは、我々こそが「政治のプロ」である。

だから、国家間のことは、「政治家に任せろ」、という「驕り」があるからだと思います。

民間の人間が「口を挟むな」と「ろくなことにはならない」という「見下した」思想に凝り固まっているからであると思います。

しかし、実際に「物を作り、それを運び、売り買い」するのは、民間の人びとの力なしには、何一つできません。

政府が行う事業にしても、最終的には、民間の業者が仕事を行うのです。

それなのに、どうして、政府が邪魔をするのでしょうか。考えられません。

国民の「創意工夫」を認めようとしない政治は、「独裁政治」につながりかねません。

国民の意見を尊重しない政権は、やがて、我々国民に「牙を向ける」かも知れません。

 明日は、中韓問題を読んでいきます。

(2015年10月27日)

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