<web上「読書会」 正村(13)>を投稿します。
これから先、何度この本を読み返すかは、分からない。
が、これから後、この箇所に至るたびに、「嘆息する」ことになるだろう。
「何と愚かな判断をした」と、本を投げ打って、「嘆息」することになるだろう。
もし、重光が馬鹿なことを考えなければ、「ハボマイ・シコタン」の返還交渉が上手くいき、「両島が日本に帰ってきていた」であろう。
重光こそは、それを潰した「戦犯」も「戦犯」、「大戦犯」である。
マリクが漏らした「独り言」を頼りに、もし、ここで解決の方策を練り、それが「実現していたら」と思うと、重光を恨みたくなる。
◆ 日ソ外交交渉
1955年3月18日、総選挙後の首班指名投票が行われた。鳩山が民主・自由両党の支持を得て254表、鈴木重三郎が160表であった。3月19日、第二次鳩山内閣が成立した。
第一次鳩山内閣の外相兼副総理重光葵、蔵相一万田尚登、農相河野一郎、通産相石橋湛山、運輸相三木武夫、経済審議庁長官高橋達之助などがそのまま留任した。
鳩山は病身のため在任期間の短いのを予感し、政治家として実績を残すことを急いだ。憲法改正の可能性は遠のいたので、外交面で成果をあげようと意欲を燃やした。
鳩山は、戦争終結宣言と両国の交換公文により日ソの国交を回復し、懸案の交渉はあとで行うという即席の解決を考えた。重光は、国交を回復すればソ連は懸案の交渉に応じないとして反対した。鳩山と重光の対立はマスコミに「二元外交」と批判された。
総選挙前、2月4日の閣議で、対ソ交渉が決定され、ニューヨークの国連常駐オブザーバー澤田釼廉三大使からソ連のソボレフ国連駐在大使に伝達された。第二次鳩山内閣成立後、日ソ交渉全権に松本俊一が任命された。
松本は、2951年以来のイギリス駐在大使で、吉田の「対米従属」外交を批判し、吉田退陣後民主党に入党、1955年2月総選挙で当選したばかりだった。
交渉の場所はロンドンに決まった。ソ連側全権はイギリス駐在大使マリクであった。6月3日に交渉が開始され、ソ連は6月14日、日本は8月16日に、それぞれ平和条約を示した。
国交回復後の漁業・通商両協定締結、主権の尊重と内政不干渉、賠償請求権の相互放棄、日本の国連加盟実現などでは原則的に一致したが、在ソ翼竜の日本人の送還、領土、海峡航行権、安全保障の諸問題で、両国は対立した。
日本は、ソ連抑留未帰還者は生存確認1452人、不明1万1190人という数字を示し、即時送還を要求した。ソ連は「現在の在ソ日本人は戦争犯罪人として服役中で、刑期満了後送還する」と答えたが、会談の途中、8月から9月にかけて戦犯の一部を釈放し、抑留者名簿を手交するなどの対応を示した。
海峡航行権問題では、ソ連は、根室、宗谷、津軽、対馬の諸海峡は各国商船の自由航行を認め、軍艦は日本海沿岸諸国のもののみ認めよ主張した。安全保障問題では、ソ連は、日本が対日戦争に参加したいかなる国とも連合または軍事同盟を締結しないように要求した。言い換えれば日米軍事同盟の破棄と中立を求めたのである。
領土問題では、日本は、南樺太、千島、ハボマイ・シコタンの返還を要求し、ソ連は、日本がその全部の権利を放棄し、ソ連の主権を承認するよう要求した。しかし、8月上旬に、マリクは、非公式の席で、条件によってはハボマイ・シコタン返還の用意があると漏らした。松本全権は、南樺太や千島の返還は望みえぬからハボマイ・シコタンの返還で交渉を妥協したいと考えた。
しかし、重光は早期妥結に反対であった。重光は「日本はサンフランシスコ平和条約で南樺太と千島の権利を放棄したがその帰属は旧連合国の国際会議で決定されるべきであり、ただちにソ連領と認められない」、南千島(クナシリとエトロフ)はサンフランシスコ平和条約の千島に含まれず、歴史的に日本の領土であり、返還を要求する」という強硬な提案を示すことを松本に訓示した。
このため、ハボマイ・シコタン返還の可能性は遠のき、ソ連側は日本の突然の強行発言に態度を悪化させた。交渉は決裂し、9月13日に中断した。≫
◆ 「外交交渉」というものに無知な日本人
何と日本の外交官は、今も昔も、「外交交渉」というものに無知なのであろうか。
もともと、日本で外交官になる人々は、「貴族上りが多い」と言われる。つまり、彼らは、「よきに、計らえ」という世界で生きてきた人びとである。
もともと、「交渉する」という事に対する「DNA(=観念)」を持ち合わせていない人々だ。
そして、結果がどうなろうと、けっして、責任を負わされることがない人びとでもある。
それは、「大東亜戦争=太平洋戦争」の例を見るだけではっきりとする。
真珠湾攻撃に際して、「宣戦布告の文書」に手交が出来なかった責任者である、井口貞夫や、奥村勝蔵は、戦争が終わった後も、とんとん拍子に出世した。
それに引き替え、杉本千畝は「冷や飯」を食わされた。
それどころか、戦争が終わったあとに、その責任を取らされ、「外務次官から
の退職通告書の送付」というやり方で、「首」を斬られた。(実際には、依願退職という形式であったが)
杉本千畝の取った「行為」は、称賛されるに値するものであり、けっして、非難されることではない。
それを日本の政府は、「訓令違反」といういる理由から、責めた。
もし、彼が「訓令違反」をした、というのなら、井口貞夫や、奥村勝蔵らは、何をしたのか。
この二人こそ、違反も違反、「大違反、大失態」をやらかした。
それなのに、この「待遇の違い」は、何なのか。
此のことについては、我々は、よく考えてみる必要が、ー現在の日本においてもー、ある。
※ 「です」、「ます」をあらためて、他の記事と同じ形式の文章に変更しました。
明日は、いよいよ、「保守合同」の中身を見ていきます。
(2015年10月14日)
これから先、何度この本を読み返すかは、分からない。
が、これから後、この箇所に至るたびに、「嘆息する」ことになるだろう。
「何と愚かな判断をした」と、本を投げ打って、「嘆息」することになるだろう。
もし、重光が馬鹿なことを考えなければ、「ハボマイ・シコタン」の返還交渉が上手くいき、「両島が日本に帰ってきていた」であろう。
重光こそは、それを潰した「戦犯」も「戦犯」、「大戦犯」である。
マリクが漏らした「独り言」を頼りに、もし、ここで解決の方策を練り、それが「実現していたら」と思うと、重光を恨みたくなる。
◆ 日ソ外交交渉
1955年3月18日、総選挙後の首班指名投票が行われた。鳩山が民主・自由両党の支持を得て254表、鈴木重三郎が160表であった。3月19日、第二次鳩山内閣が成立した。
第一次鳩山内閣の外相兼副総理重光葵、蔵相一万田尚登、農相河野一郎、通産相石橋湛山、運輸相三木武夫、経済審議庁長官高橋達之助などがそのまま留任した。
鳩山は病身のため在任期間の短いのを予感し、政治家として実績を残すことを急いだ。憲法改正の可能性は遠のいたので、外交面で成果をあげようと意欲を燃やした。
鳩山は、戦争終結宣言と両国の交換公文により日ソの国交を回復し、懸案の交渉はあとで行うという即席の解決を考えた。重光は、国交を回復すればソ連は懸案の交渉に応じないとして反対した。鳩山と重光の対立はマスコミに「二元外交」と批判された。
総選挙前、2月4日の閣議で、対ソ交渉が決定され、ニューヨークの国連常駐オブザーバー澤田釼廉三大使からソ連のソボレフ国連駐在大使に伝達された。第二次鳩山内閣成立後、日ソ交渉全権に松本俊一が任命された。
松本は、2951年以来のイギリス駐在大使で、吉田の「対米従属」外交を批判し、吉田退陣後民主党に入党、1955年2月総選挙で当選したばかりだった。
交渉の場所はロンドンに決まった。ソ連側全権はイギリス駐在大使マリクであった。6月3日に交渉が開始され、ソ連は6月14日、日本は8月16日に、それぞれ平和条約を示した。
国交回復後の漁業・通商両協定締結、主権の尊重と内政不干渉、賠償請求権の相互放棄、日本の国連加盟実現などでは原則的に一致したが、在ソ翼竜の日本人の送還、領土、海峡航行権、安全保障の諸問題で、両国は対立した。
日本は、ソ連抑留未帰還者は生存確認1452人、不明1万1190人という数字を示し、即時送還を要求した。ソ連は「現在の在ソ日本人は戦争犯罪人として服役中で、刑期満了後送還する」と答えたが、会談の途中、8月から9月にかけて戦犯の一部を釈放し、抑留者名簿を手交するなどの対応を示した。
海峡航行権問題では、ソ連は、根室、宗谷、津軽、対馬の諸海峡は各国商船の自由航行を認め、軍艦は日本海沿岸諸国のもののみ認めよ主張した。安全保障問題では、ソ連は、日本が対日戦争に参加したいかなる国とも連合または軍事同盟を締結しないように要求した。言い換えれば日米軍事同盟の破棄と中立を求めたのである。
領土問題では、日本は、南樺太、千島、ハボマイ・シコタンの返還を要求し、ソ連は、日本がその全部の権利を放棄し、ソ連の主権を承認するよう要求した。しかし、8月上旬に、マリクは、非公式の席で、条件によってはハボマイ・シコタン返還の用意があると漏らした。松本全権は、南樺太や千島の返還は望みえぬからハボマイ・シコタンの返還で交渉を妥協したいと考えた。
しかし、重光は早期妥結に反対であった。重光は「日本はサンフランシスコ平和条約で南樺太と千島の権利を放棄したがその帰属は旧連合国の国際会議で決定されるべきであり、ただちにソ連領と認められない」、南千島(クナシリとエトロフ)はサンフランシスコ平和条約の千島に含まれず、歴史的に日本の領土であり、返還を要求する」という強硬な提案を示すことを松本に訓示した。
このため、ハボマイ・シコタン返還の可能性は遠のき、ソ連側は日本の突然の強行発言に態度を悪化させた。交渉は決裂し、9月13日に中断した。≫
◆ 「外交交渉」というものに無知な日本人
何と日本の外交官は、今も昔も、「外交交渉」というものに無知なのであろうか。
もともと、日本で外交官になる人々は、「貴族上りが多い」と言われる。つまり、彼らは、「よきに、計らえ」という世界で生きてきた人びとである。
もともと、「交渉する」という事に対する「DNA(=観念)」を持ち合わせていない人々だ。
そして、結果がどうなろうと、けっして、責任を負わされることがない人びとでもある。
それは、「大東亜戦争=太平洋戦争」の例を見るだけではっきりとする。
真珠湾攻撃に際して、「宣戦布告の文書」に手交が出来なかった責任者である、井口貞夫や、奥村勝蔵は、戦争が終わった後も、とんとん拍子に出世した。
それに引き替え、杉本千畝は「冷や飯」を食わされた。
それどころか、戦争が終わったあとに、その責任を取らされ、「外務次官から
の退職通告書の送付」というやり方で、「首」を斬られた。(実際には、依願退職という形式であったが)
杉本千畝の取った「行為」は、称賛されるに値するものであり、けっして、非難されることではない。
それを日本の政府は、「訓令違反」といういる理由から、責めた。
もし、彼が「訓令違反」をした、というのなら、井口貞夫や、奥村勝蔵らは、何をしたのか。
この二人こそ、違反も違反、「大違反、大失態」をやらかした。
それなのに、この「待遇の違い」は、何なのか。
此のことについては、我々は、よく考えてみる必要が、ー現在の日本においてもー、ある。
※ 「です」、「ます」をあらためて、他の記事と同じ形式の文章に変更しました。
明日は、いよいよ、「保守合同」の中身を見ていきます。
(2015年10月14日)
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