2015年10月12日月曜日

政治家の「倫理」と、普通の国民の「倫理」の相違とは

「芸人(=または芸能人)」は、普通の国民の目から見れば「とんでもないことをする」と思われるようなことをしても、それも「芸のうち」であるとされます。
では、普通の国民と、政治家とではどうでしょうか。

もし、ここに、その具体例を挙げていけば、「キリがない」ほどになることでしょう。

このような事を、普通の国民が行えば、仮に、「罪に問われることがない」ような場合においても、世間からは「白い目で見られ」、「後ろ指をさされる」ことになるでしょう。

では、これを政治家が行ったとしたら、どうでしょう。やはり、その政治家は、「白い目で見られ」たり、「後ろ指をさされ」することになるでしょうか。

つまり、普通の国民の倫理(=道徳)と、政治家の倫理(=道徳)は、同じでなければないのでしょうか。

「ティータイム」には、少し、「重い話題」かも知れませんが、しばらくのあいだ、お付き合いを願います。


さて、上にのべたことについては、稀有の政治学者であり、社会学者である、小室直樹博士の、明解な「解説」があります。

以下に、それを紹介したいともいます。引用した文章は、長くなりますが、重要な指摘がなされています。じっくりと、読んで頂くだけの「値打ちがある」と思います。

それを、ヒントにして、共産党の民主党への「提案」についての感想を述べます。


◆ 政治倫理」とは、政治指導者及びその他の政治家が、その義務を果たす事


≪此処で肝心なことは、政治家とは普通の人間とは全く違った動物である、ということである。
だから、普通の人の倫理で政治家を律すると、とんでもないことになる。立派な政治家とダメな政治家との区別がつかなくなってしまう。普通の人の目から見ると、どうせやること事は似たような事だ。というよりも、もっと悪いことに、政治家は、普通人の倫理では決して行ってはならぬことを、平気でやらかす人種である。
故に、こんな倫理に照らしてみると、政治家は皆極悪人になってしまう。
しかも、優れた政治家がいないと、人類は生存を続ける事が出来ない。
船長を失った帆船みたいになってしまうのだ。・・・
良い船長とは、船の操縦に長けた船長のことであり、良い医者とは、患者を治すのが上手い医者のことである。また、船長の倫理とは、安全に航海目的を達成するために忠実なことであり、医者の倫理とは、患者を治すことために忠実なことである。
其れ以上でも、それ以下でもない。
また、この目的実現の為なら、日常生活では決して許されない事でも十分に許される。いやそれどころではない、其れこそが倫理的なのである。
例えば、女性を裸にしたり、他人の腹をきり捌いたり、普通の人がこんな事をしら犯罪だ。しかし、医者ならどうだ。其れが治療目的の為に必要なときに、もしこれを躊躇(ためら)ったりしていて、手遅れになって患者が死んだりしたら、却って其のほうが医者の倫理に反し、責任問題が発生するであろう。
船長も、大暴風雨の時、狂乱した乗客や船員の行動が、船の安全にとって致命的であると判断するのに十分な理由がある場合には、任意にこれを射殺して良い。
其れが、船長の倫理だ。
政治倫理とは、正に、此の様なものである。
政治指導者及びその他の政治家の義務は、国民の安全と生活を保障し、国を繁栄させ、外敵から守るにある。近代では其の上、デモクラシーと国民の権利を守るにある。
此の義務を忠実に果たす事、其れが政治倫理であり、これに尽きる。
また、この目的の為なら、普通の人間に許されないことでも許される。
また、是と関係のない所で、何をしてもまたしなくても、政治指導者としての評価に影響が生ずることはない。
是ぞ政治のエッセンスであり、此のことを理解した国民は栄え、此のことを忘却した国民は、高い代償を支払わされる。≫( 『政治的無知が日本を滅ぼす』 ビジネス社刊 P258~260)

◆ 民主党に対して驚くべき提案をした共産党

先だって、「安保法案」が、国会で強行採決の結果、可決されました。この「法案」については、大半の国民が、「(政府の)説明が不十分である」。採決せずに、先送りすべきである、という意思を明らかにしてきています。

それは、国政調査の結果で、証明されています。

それはさておき、国会を通過した「事実」は、事実です。

そんな中で、日本共産党が、驚くべき提案を民主党に対して、行いました。
共産党は19日、安保法廃止に向けて野党が共闘する「国民連合政府」を提案。安保法を廃止するには「国会で廃止の議決を行うことが不可欠として、「すべての政党・団体・個人が、思想・信条の違い、政治的立場の違いを乗り越えて力をあわせ、安倍自公政権を退場させ、立憲主義・民主主義・平和主義を貫く新しい政治をつくろうではありませんか」と呼びかけていた。≫
このことに関しては、今後の推移を予測することは出来ませんが、今、考えてみたいことは、他にあります。

つまり、この提案を行った共産党のことです。


◆ 志位委員長の提案は、「政治倫理」に沿ったものである

この共産党の動きに対しての国民の評価は、どうでしょうか。これまでの、共産党の政治姿勢と比べて、評価に値するものでしょうか。

普通に考えれば、これまでの共産党の姿勢は、「わが党の候補者が一番である」。だから、あらゆる選挙区に、候補者を立てるというものでした。

もし、今回の提案にあるような選挙協力をしていれば、先の衆議院選挙などでも、自民党があれほどの議席を確保することは出来なかったでしょう。

それでも、共産党は、「独自候補の擁立」を止めませんでした。多くの国民の目には、それは「共産党の独善」と映ったことでしょう。

ところが、今回は、これまでの姿勢を一転、ーあらゆる勢力を結集して、「安保法を廃止にするためにー、民主党に対し、「歩み寄り」の姿勢を見せ、協力をすることを呼びかけました。

この姿勢は、「得手勝手」な、「恥知らずな」な、ー自分の党の力ではできないのでー、「トラの威を借りる」姑息な、政治的手法に見えなくもありません。

これまでの共産党の政治的姿勢からすれば、「(共産党の)政治倫理」に背くもの、と受け取られても、仕方のないことでしょう。

「正直であること」
「正しいと持ったことは、一人でもやり通す」
「コロコロと、信念を変えないで、信じた道を行く」
「自分の気持ちに、」正直であること」
「変節を避ける」

普通の国民の倫理感(=道徳観)からすれば、「どうか」と思われるような「徳目」に照らして、「疑問符を打」ってもおかしくないような行動に、見えるのではないでしょか。

それでも、政治指導者及びその他の政治家の義務は、国民の安全と生活を保障し、国を繁栄させ、外敵から守るにある。近代では其の上、デモクラシーと国民の権利を守るにある」という「政治倫理」からすれば、ー小室博士が示された「認識」に照らしてみればー、今回の志位委員長の提案は、政治倫理」に沿ったものである、といえるでしょう。

こう、評価されるべき提案ではないでしょうか。

「あらゆる”偏見”」、「独善」、「見栄」、「メンツ」、「建前」などなど。

これらの、普通の国民からすれば「許されざる徳目」を、たとえ、踏みにじることになろうとも、「安保法」を廃止するために、「大同団結」を呼びかけた志位委員長の「英断」に、私は、拍手を送りたいと思います。


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(2015年10月12日)