2018年11月6日火曜日

蝋板や石膏板の発明が、「書く」と言う行為を促した (Ⅴ)

★34・パピルスの主な使い手であった書記官は、先端をそいで硬い筆にした葦ペンで文書を記した。

書記官となるために勉強中の学生たちは、シューメール人が粘土板を使ったように、文字を消せる柔らかい石膏で覆われた書字版を最初に使った。

石膏は軽く叩くだけで最初から書きなおせる。

・石膏よりも、もっと用途が広く、何世紀ももちこたのは、中心をくりぬいて蝋をみたせるようにした蝋板である。蝋の種類は蜜蝋である。


・-80年に作られたその蝋板がアッシリア地方で発見されている。

・古代のギリシャ、ローマでは、この蝋板がたいへんな人気であった。使用された蝋は黒く、鉄筆の一方の先端は字を書くために尖らせ、もう一方の先端は字を消せるように尖らせていなかった。

・蝋板が古代文明の書字文化に大きく貢献したのは、専門家である書記官以外の人々が「気軽に」書けるように作られたはじめての道具であったからだと思われる。

・蝋板が登場するまでは、なんであれ書かれたものには重大にして恒久的な意味合いがあると考えられていたことだろう。

・一般の人々が書きはじめるや、一時的に「書きたい」という欲求が生じた。
*取り急ぎ書きとめて翌日には消すメモ
*計算するときの補佐
*いつまでも残す公文書の下書き、
などである。

・それ以前は、一度書いたものは目的がなんであろうと永久に残っていた。翌日に捨てるために粘土板を焼くことはできないし、高価なパピルスの巻物をメモに使って、用が済んだら捨てることもできない。

文字どうり石に刻んだものは、比喩的にも「石に刻まれた」ことになり、書かれていない(もと)状態には戻せない。

だから、この点、蝋板は、古代世界が生みだした独創的な「お絵かきボード」でもあった。


★35・蝋板はほかの書字媒体よりも書きやすく、二枚の蝋板を盛り上がった縁と縁とのあいだで綴じることが多かった。

そうしておけば板を閉じても書かれた内容は損なわれない。この綴じた部分で折りたためる二蓮板は「ディプティカ」と呼ばれ、ヘブライ人には人気があった。

・「十戒」が映画化されるときにはかならず、修正の意図はないという意味で、石製のディプティカのモーセの十戒が書かれるのが通例になっている。

・何枚もの板を一緒に閉じたものもあって、ラテン語ではこれを「コディクス」(冊子本)と呼んだ。このコディクスは本の前身である。

もとは蝋板を指す言葉であったが、のちにパピルス、羊皮紙、最終的には紙を綴じたものにもこの言葉が使われるようになった。

★38~39・フェ二キア人と数世紀にわたって商取引をしてきたギリシア人は、-8世紀までに独自に変化した言語を発達させていた。

赤=ギリシャの都市。黄色=フェニキア人の都市。

母音表記のないフェニキア語は、母音を中心とした母語をもつギリシア人には悩ましい言語だった。・・そこでギリシア人は、使われていない子音をなくしてギリシャ語の母音に割り振るという解決手段を講じた。

このセム語派の言語のようでありながら母音のない書き言葉が捜索されたことは、西洋の書字の発達における一大転換であるとともに、その後のヨーロッパの玄吾の規範ぐまれた瞬間でもあった。

古代ギリシャ語の文字体系ははじめのうち、ギリシャの島々や都市国家で話されていた方言によって異なっていた。

しかし、ー403年、アテナイ人がみずからのイオニア式アルファベットをすべての公文書に使用することを法令で定め、これが統一されたギリシャ語のアルファベットとなった。

ギリシア人は自分たちの文字をセム語にならって名付けたため、「アルフ」は「アルファ」に「ベット」は「ベータ」になった。

つまり、「アルファベット」はもとは「アルファ」「ベット」なのである。
ギリシャ語のアルファベットの配列もセム語派のそれとさほど変わらない。

母音の追加とはべつにギリシア人がもたらした大きな変化は、数世紀も続いてきた右から左への書字方向を左から右へと変えるという決定だった。

この変化はイオニア人の言葉がギリシャの標準語とされた5世紀にすでに起こっていた。
その過程で「ベータ」「イプシロン」「カッパ」など、いくつかの文字の向きも変えられた。

それが「B]「E」「K」の起源である。


(2018年11月6日)