2015年10月31日土曜日

日米同盟強化への道「日本の平和に貢献するかのか」

<web読書会 正村(30)>
今回から、「日米安保条約の改定」の章を、読んでいきます。石橋湛山が病に倒れ、内閣は瓦解し、岸信介の登場してきます。その岸信介が進めた日米(軍事)同盟強化への道
は、本当に日本の平和を守ることに貢献した、と言えるのでしようか。この道より他には、取るべき道がなかったのでしようか。

「改定」のほかには、「警職法改正」、「三池闘争」、「勤務評定(=教員)」などが含まれます。

正村公宏氏は、以下のように述べて、「この章」を締めくくっています。

「反安保闘争は、内部に深刻な対立をはらんだ巨大な大衆行動の波となり、まさにそのようなものとして一定の力を持つことが出来た。しかし、それは、日本の政治を根底から変革する統合された新しい主体勢力を形成することには成功しなかった。

反安保闘争のなかに部分的・萌芽的に形成された新しい市民的要素を、自由主義・民主主義を基礎とする改革的政治運動な中に発展させていくためのいくつかの試みが、既成革新勢力のなかでも外でも生まれたけれども、十分にみのるまでにはいたらなかった。」

では、この「反安保闘争」とはいかなるものであったのか。それは、如何にしてたたかわれたのか。なぜ、「市民的要素」を十分に発展させることが出来なかったのか。

これらのことのついて、これから、観ていきたいと思います。


 石橋内閣


≪1956年12月14日、鳩山辞任後の総裁を選ぶ自民党大会が開催された。河野一郎は鳩山が後継総裁に岸信介を指名する方式でまとめようとしたが、鳩山は「引退するものはあとに影響を残すべきでない」と断った。

大会では、岸信介、石橋湛山、石井光次朗の3人が立候補し、各派閥が激突する選挙戦を展開した。第1回投票は、岸223票、石橋151票、石井137票であった。1位の岸も過半数を得られず、決選投票が行われた。

石橋陣営の石田博英や三木武夫は、石井陣営の池田隼人らと決選投票での協力を約束していた。決選投票は、石橋258票、岸251票となり、7票の僅差で石橋が選出された。

石橋は1884年(明治17年)の生まれで72歳。早稲田大学哲学科を卒業して東洋経済新報社に入社した。『東洋経済新報』に依拠して自由主義的論陣をはり、軍備増強や軍国主義に反対し、満州事変や5・15事件を批判した。

1941年に同社社長に就任し、戦時中も軍部との妥協を拒否した。戦後、1946年4月総選挙に立候補して落選した。同年5月から翌1947年5月まで第1次吉田内閣の蔵相を務め、1947年4月、新憲法下最初の総選挙で衆議院議員になったが、吉田内閣総辞職とほぼ同時に公職追放処分を受けた。

戦前・戦中の石橋を考えると追放は不当だが、蔵相時代のGHQとの対立や自由党内の派閥抗争が影響したと見られている。1951年6月に追放解除されて自由党に所属したが、吉田路線に反対し、鳩山や三木らとともに行動した。

鳩山内閣では通産相を務めた。日中貿易にも強い関心を持ち、積極的役割を演じてきた。

・1956年12月20日、石橋は国会で首班指名を受けた。党内の少数派連合により僅差で総裁・総理にえらばれただけに組閣は難航したが、12月23日に石橋内閣が発足した。

外相岸信介、蔵相池田隼人、文相灘尾弘吉、通産相水田三喜男といった顔ぶれであった。官房長官に石田博英、自民党幹事長に三木武夫が就任した。

組閣後、石橋は、「経済については、国民性格の向上と安定を目途とし、急激な変化を避けつつ大いに積極性先を断行する。外交については、自由主義諸国の一員として国際連合に協力しつつ自主外交の確立をきす」と語った。

1956年の閣議は、「中国承認問題は当面取り上げないが、 中国貿易拡大の方向で進む」との方針を決定した。中国貿易への期待は産業界に強く、日ソ国交回復に反対した池田など旧自由党系の政治家たちも日中貿易拡大には賛成であった。・・・・

・1957年1月8日、石橋は、東京の日比谷公会堂の演説で、国会運営の正常化、政界・官界の綱紀粛清、雇用増大と生産増加、福祉国家の建設、世堺平和の確立、という「五つの誓い」を述べた。

石橋は、民間設備投資に主導される経済成長が始動しつつある状況のなかで、政府もまた積極財政政策を展開し、経済成長を加速し、雇用を増大せ、国民の所得を高め、福祉国家を建設するという展望を示した。

・鳩山内閣時代の1955~56年は日本経済がこれまでになく順調に発展した時期であった。1956年7月に発表された政府の『経済白書』は、「もはや戦後ではない。これからの経済は近代化によって支えられる」と述べ、復興期のような高い成長は困難だが、近代化と技術革新によって持続的成長を実現したいという希望を述べていた

現実には、産業の近代化と技術革新のための民間設備投資が高揚し、「神武天皇以来の好景気」という意味で「神武景気」と呼ばれる好景気が持続した。1956年秋のスエズ動乱は国民経済にとって不安手要因であったが、日本では卸売物価が高騰し、景気をさらに過熱させる要因となった。

こうした未曾有の好景気は租税の伸びを高めた。1957年度予算編成にさいして政府は前年度比約2000億円の財源の伸びを予想した。1956年度の政府の一般会計予算の規模は約1兆897億円(補正後)であったから、対前年予算比で約18%の財源増が予想されたのである。

池田蔵相は、石橋首相の積極政策を受けて、「1000億円減税、1000億円世策」の方針を発表した。一方では所得税の大幅減税を実施し、税制全般を改革するとともに、他方では、産業基盤と工業の立地条件の整備国民健康保険の普及と促進老齢母子年金制度の創設住宅建設と環境衛生施設の整備中小企業の育成強化経済外交の強化などの施策を実現することが公約された。

しかし、石橋路線は実行に移されずに挫折した。(石橋が、病気になり、国会審議に出ることが出来なくなったからである。)≫


 石橋首相が倒れ、岸が登場

戦後の混乱期をようやく脱した日本でしたが、ここから、また、国難が待ち受けていました。

壮大な計画のもとに、さらなる前進をしていこうとした矢先に、石橋首相が倒れたからです。

まさにこれからという時でした。

もし、石橋が病に倒れることがなければ、現在の日本の姿は、もっと変わったものになっていたことでしょう。

石橋湛山は、結局、総理に復帰することは出来ませんでした。

石橋湛山は、1973年まで生きました。石橋内閣が、せめて、後4年つづいていれば、恐らく「岸の出番」はなかったことでしょう。

岸信介が、登場することはなかったかもしれません。
それにしても、なぜ、岸が政界に復帰することが出来たのでしょうか。

A級戦犯として拘束されていた岸が、何故か、訴追されずに釈放されました。
そして、再び、政治の舞台へと登場してきます。

そこには、「米国の意図」を感じざるをえない面があるのですが、「CIAの文書」は、いまだに開示されていません。

やはり、何か、「不都合なことが隠されている」のでしょう。
岸が、安保を改定することで、「日米安保条約」は、「相互的」なものになりました。

ですが、それでも、米国にとっては、満足のいくものでなかったようです。
それを、米国にとって満足のいくものにしたのが、「岸の孫」の安倍首相です。

ここに、米国の70年にわたる「深慮遠謀」が完成をみた、というべきでしょう。

(2015年10月31日)

0 件のコメント: