<web上読書会 正村(20)>を、投稿します。
今日は、教育改革の続きと、選挙制度について、観ていきます。
とくに教科書検定制度、小選挙区制と議会制民主主義の関係などが、中心になります。
◆ 教科書の検定と、小選挙区制度
≪教科書制度は戦後の教育価格の一環として1947年に改革された。国定教科書制度は廃止され、教科書検定制度が発足した。
教育内容は文部省の定める学習指導要領を基軸とするが教科書の検定は都道府県教育員会のみが行うという分権的な制度が、1948年の教育委員会法で確立した。しかし、1953年の学校教育法の一部改正で教科書検定は都道府県教育委員会から文部大臣に移された。
1955年8~11月には、当時の鳩山内閣の与党である日本民主党の教科書問題特別委員会が『うれうべき教科書の問題』という文書を発表した。
この文書は、教科書の出版や売り込みにおける競争の悪影響を批判すると同時に、教科書の内容のイデオロギー的偏向を非難し、教科書や学習帳にたいする共産党や日教組の影響力を問題にした。
「教科書にあらわれた偏向教育」の具体例として、「教員組合をほめたたえるタイプ」「ソ連・中共を礼賛するタイプ」「マルクス・レーニン主義の平和教科書」などが示された。
こうした教科書批判を背景に、1955年12月の中央教育制度審議会(会長は吉田内閣の文相天野貞祐)の答申を経て教科書法案が用意された。
新教委法案と教科書法案にたいしては民主主義教育を破壊するものだとする反対運動が起きた。日教組は、1956年5月18日、一斉早退戦術をとり、全国1475か所で抗議集会を開いた。
社会党は衆議院でも参議院でも実力行使で審議阻止をはかった。6月1日の参議院本会議は社会党議員が議長席に殺到して衛視などと乱闘状態になり、6月2日の払暁(ふつぎょう)、議長が警察官を要請、新教育委員会法案を可決成立させた。
教科書法案は審議未了、廃案となったが、その内容は行政措置で実質的に導入された。
・保守合同後の鳩山内閣が提出したもう一つの重要法案は小選挙区法案であった。
三木武吉や岸信介はかねてから小選挙区制の必要を唱えていた。「イギリス型の二大政党制の確立」というのが理由だったが、当時の日本では、それは野党の議席の激減と自民党の圧倒的多数獲得により憲法改正発議を可能にするものと理解された。
政局を安定させるという小選挙区の長所を強調するなら、同時に短所である死標の多さも重視する必要があった。小選挙区制の長所を生かし短所補うためにつくられた西ドイツの小選挙区制プラス比例代表制の例なども参照されるべきであった。
戦後の西ドイツでは選挙民は各小選挙区の候補者名と政党名とを同時に別々に記入して投票し、下院の議席数は基本的には政党支持率に応じた比例代表の原則で配分されている(得票率の低い小政党は排除)。しかしそうした事例は政治の舞台ではほとんど議論の対象とされなかった。
岸幹事長は、岸派の川島正次郎小選挙区特別委員長とともに党内の意向を取りまとめて区割りを決め、法案を1956年3月19日に国会に提出した。
しかし、自民党の意向を汲み彼らに有利な区割りを設定したために党利党略が露骨になった。
略
政府側は区割りはのちに首相任命の5人委員会で検討するなどの妥協案を示し、辛うじて5月16日に衆議院を修正可決した。しかし、新教育委員会法審議の混乱の影響を受け、審議未了、廃案となった。
小選挙区法案や新教育委員会法案などの阻止のために社会党が展開した実力審議阻止の戦術は、それ自体としては議会制民主主義を否定するものであった。
しかし、政府の小選挙区制に関する露骨な党利党略や憲法改正への懸念、戦後教育制度の安易な改廃に対する反発などが広く存在したため、社会党の態度は強く非難されず、むしろ鳩山内閣の側が批判される傾向が強かった。
略
1950年代の日本の政治は、議会制を機能させるために十分に好ましい条件が形成されているとはいえなかった。共産党は武力革命路線を採用して議会制民主主義の否定に走り、社会党左派も将来の政権掌握後は「プロレタリア独裁」という名の一党独裁体制を志向するという議会制否認の路線を示した。
議会制を否定する権力獲得のために議会制を利用するという左派のマルクス・レーニン主義が、これらの政党に決定的な影響を及ぼしていたのである。それは戦後再建強化された民主主義の発展にとって有害であった。
そうした左翼の動きに対抗して政府・自民党側が提出した小選挙区制も、当時の状況では、野党に致命的打撃を与え、保守支配を半ば恒久化し、議会制の機能の麻痺をもたらす危険が大きく、その区割りはあまりにも党利党略的であった。
保守勢力が大合同を実現したあとであるだけに、小選挙区制が一党支配による議会の停滞と腐敗をもたらす危険は大きくなっていたのである。こうした状況のため、社会党はそれ自体としては議会制を破壊することになる諸手段の行使を正当化することができた。 ≫
◆ 中選挙区制に戻るしかない
長くなりました。キリがいいので、今日はここまでにしたいと思います。
今、お隣の韓国では、教科書問題で政権が「窮地」に陥っています。
教科書の国定化を推し進めようとしているからです。
いつの時代でも、どこの国においても、ーもちろん、近代国家にけぎってのことですがー学校の教科書を政権の都合のよいものにしようとする傾向は、変わらないようです。
戦争に負けて、ヨッロパ流の民主主義を受け入れた日本でしたが、所詮は「借り物」、自らの「汗と涙」で勝ち取ったものでない以上、「夜明け前の、花の露」でしかなかった。
そのように思えます。
小選挙区制が、「野党に致命的打撃を与え、保守支配を半ば恒久化し、議会制の機能の麻痺をもたらす危険が大き」いということは、現に我々が目にしていることです。
日本のように、-米国や、ヨーロッパと違いー、宗教的な基礎を持たない国に、いきなり二大政党制を持ってきても、「うまくいかない」という例を我々は、目の前に見せつけられている。
それが現状である、と思います。
今の、自民党の一党支配の構造を変えるには、「中選挙区制に戻るしかない」というのが、私の意見です。
教育に関しては、もっとほかにも、言いたいことは沢山あるのでが、そのことについては、このブログの中でも、記事にしていますし、これからも、この記事を参考にして、新たに増やしていきたいと考えています。
※ 「”ラベル”名」を、「web上『読書会』」に変更しました。
「メモ帳」ではいかにも、私的なものに思えると、考えたからです。
この「web上『読書会』」は、少なくとも、来年の参議院選までは、戦前・戦後の歴史ー特に、政治関係のこと―、を取り扱っていきたいと考えています。
今、読み進めている正村公宏著『戦後史』は、全部で1000ページに及ぶ「大作」です。
ここに、書き写しているのは、一回に付き、2ページ分にすぎません。
ですから、全ページを写し取るのは、500日を要します。
もちろん、全ページを写し取る予定ではありませんが、それでも、まだ当分は、続きます。
そのあとには、「講和条約」か、「大正時代の政治・社会」に関する本を読んでいく予定にしています。
(2015年10月21日)
今日は、教育改革の続きと、選挙制度について、観ていきます。
とくに教科書検定制度、小選挙区制と議会制民主主義の関係などが、中心になります。
◆ 教科書の検定と、小選挙区制度
≪教科書制度は戦後の教育価格の一環として1947年に改革された。国定教科書制度は廃止され、教科書検定制度が発足した。
教育内容は文部省の定める学習指導要領を基軸とするが教科書の検定は都道府県教育員会のみが行うという分権的な制度が、1948年の教育委員会法で確立した。しかし、1953年の学校教育法の一部改正で教科書検定は都道府県教育委員会から文部大臣に移された。
1955年8~11月には、当時の鳩山内閣の与党である日本民主党の教科書問題特別委員会が『うれうべき教科書の問題』という文書を発表した。
この文書は、教科書の出版や売り込みにおける競争の悪影響を批判すると同時に、教科書の内容のイデオロギー的偏向を非難し、教科書や学習帳にたいする共産党や日教組の影響力を問題にした。
「教科書にあらわれた偏向教育」の具体例として、「教員組合をほめたたえるタイプ」「ソ連・中共を礼賛するタイプ」「マルクス・レーニン主義の平和教科書」などが示された。
こうした教科書批判を背景に、1955年12月の中央教育制度審議会(会長は吉田内閣の文相天野貞祐)の答申を経て教科書法案が用意された。
新教委法案と教科書法案にたいしては民主主義教育を破壊するものだとする反対運動が起きた。日教組は、1956年5月18日、一斉早退戦術をとり、全国1475か所で抗議集会を開いた。
社会党は衆議院でも参議院でも実力行使で審議阻止をはかった。6月1日の参議院本会議は社会党議員が議長席に殺到して衛視などと乱闘状態になり、6月2日の払暁(ふつぎょう)、議長が警察官を要請、新教育委員会法案を可決成立させた。
教科書法案は審議未了、廃案となったが、その内容は行政措置で実質的に導入された。
・保守合同後の鳩山内閣が提出したもう一つの重要法案は小選挙区法案であった。
三木武吉や岸信介はかねてから小選挙区制の必要を唱えていた。「イギリス型の二大政党制の確立」というのが理由だったが、当時の日本では、それは野党の議席の激減と自民党の圧倒的多数獲得により憲法改正発議を可能にするものと理解された。
政局を安定させるという小選挙区の長所を強調するなら、同時に短所である死標の多さも重視する必要があった。小選挙区制の長所を生かし短所補うためにつくられた西ドイツの小選挙区制プラス比例代表制の例なども参照されるべきであった。
戦後の西ドイツでは選挙民は各小選挙区の候補者名と政党名とを同時に別々に記入して投票し、下院の議席数は基本的には政党支持率に応じた比例代表の原則で配分されている(得票率の低い小政党は排除)。しかしそうした事例は政治の舞台ではほとんど議論の対象とされなかった。
岸幹事長は、岸派の川島正次郎小選挙区特別委員長とともに党内の意向を取りまとめて区割りを決め、法案を1956年3月19日に国会に提出した。
しかし、自民党の意向を汲み彼らに有利な区割りを設定したために党利党略が露骨になった。
略
政府側は区割りはのちに首相任命の5人委員会で検討するなどの妥協案を示し、辛うじて5月16日に衆議院を修正可決した。しかし、新教育委員会法審議の混乱の影響を受け、審議未了、廃案となった。
小選挙区法案や新教育委員会法案などの阻止のために社会党が展開した実力審議阻止の戦術は、それ自体としては議会制民主主義を否定するものであった。
しかし、政府の小選挙区制に関する露骨な党利党略や憲法改正への懸念、戦後教育制度の安易な改廃に対する反発などが広く存在したため、社会党の態度は強く非難されず、むしろ鳩山内閣の側が批判される傾向が強かった。
略
1950年代の日本の政治は、議会制を機能させるために十分に好ましい条件が形成されているとはいえなかった。共産党は武力革命路線を採用して議会制民主主義の否定に走り、社会党左派も将来の政権掌握後は「プロレタリア独裁」という名の一党独裁体制を志向するという議会制否認の路線を示した。
議会制を否定する権力獲得のために議会制を利用するという左派のマルクス・レーニン主義が、これらの政党に決定的な影響を及ぼしていたのである。それは戦後再建強化された民主主義の発展にとって有害であった。
そうした左翼の動きに対抗して政府・自民党側が提出した小選挙区制も、当時の状況では、野党に致命的打撃を与え、保守支配を半ば恒久化し、議会制の機能の麻痺をもたらす危険が大きく、その区割りはあまりにも党利党略的であった。
保守勢力が大合同を実現したあとであるだけに、小選挙区制が一党支配による議会の停滞と腐敗をもたらす危険は大きくなっていたのである。こうした状況のため、社会党はそれ自体としては議会制を破壊することになる諸手段の行使を正当化することができた。 ≫
◆ 中選挙区制に戻るしかない
長くなりました。キリがいいので、今日はここまでにしたいと思います。
今、お隣の韓国では、教科書問題で政権が「窮地」に陥っています。
教科書の国定化を推し進めようとしているからです。
いつの時代でも、どこの国においても、ーもちろん、近代国家にけぎってのことですがー学校の教科書を政権の都合のよいものにしようとする傾向は、変わらないようです。
戦争に負けて、ヨッロパ流の民主主義を受け入れた日本でしたが、所詮は「借り物」、自らの「汗と涙」で勝ち取ったものでない以上、「夜明け前の、花の露」でしかなかった。
そのように思えます。
小選挙区制が、「野党に致命的打撃を与え、保守支配を半ば恒久化し、議会制の機能の麻痺をもたらす危険が大き」いということは、現に我々が目にしていることです。
日本のように、-米国や、ヨーロッパと違いー、宗教的な基礎を持たない国に、いきなり二大政党制を持ってきても、「うまくいかない」という例を我々は、目の前に見せつけられている。
それが現状である、と思います。
今の、自民党の一党支配の構造を変えるには、「中選挙区制に戻るしかない」というのが、私の意見です。
教育に関しては、もっとほかにも、言いたいことは沢山あるのでが、そのことについては、このブログの中でも、記事にしていますし、これからも、この記事を参考にして、新たに増やしていきたいと考えています。
※ 「”ラベル”名」を、「web上『読書会』」に変更しました。
「メモ帳」ではいかにも、私的なものに思えると、考えたからです。
この「web上『読書会』」は、少なくとも、来年の参議院選までは、戦前・戦後の歴史ー特に、政治関係のこと―、を取り扱っていきたいと考えています。
今、読み進めている正村公宏著『戦後史』は、全部で1000ページに及ぶ「大作」です。
ここに、書き写しているのは、一回に付き、2ページ分にすぎません。
ですから、全ページを写し取るのは、500日を要します。
もちろん、全ページを写し取る予定ではありませんが、それでも、まだ当分は、続きます。
そのあとには、「講和条約」か、「大正時代の政治・社会」に関する本を読んでいく予定にしています。
(2015年10月21日)
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