2015年10月14日水曜日

「正しい歴史教科書」⇒「正しい国語」、・・・と、連続する危険 韓国

「正しい歴史教科書」⇒「正しい国語」⇒「正しい音楽」と、次々に「正しい・・」が、国家権力によって、国民に押し付けられる危険がある。
ただし、これはお隣の韓国での話である。

 
韓国の報道機関に「the hankyoreh」というサイトがある。このことを最近知った。そして、このサイトに開催されている記事の内容を読んで、驚いた。

と同時に、「食わず嫌い」ということについて、改めて、考えさせられた。

昨日も、「国定教科書」についての記事を投稿したのだが、この記事を参考にして再度、考えてみたい。


 「the hankyoreh JAPAN」の記事より
12日、韓国政府は韓国史教科書の再国定化を発表し、「正しい韓国史教科書」を作るとした。 しかし「正しい歴史教科書」というのはありえない。 歴史教科書は“定説”、“通説”あるいは“多数説”に基づいて書かれるのであって、“正説”により書かれるのではないためだ。 もちろん辞典には“正説”という単語自身がない。
定説とは「一定の結論に到達しすでに確定した、ないしは認められた説」を意味し、通説とは「世の中に広く知られ、一般的に認められている説」を意味する。 また多数説とは多数が支持する説だ。 歴史学界では通説という言葉をよく使い、定説という言葉はあまり使わない。 通説といえどもいつでも多数説ないしは少数説に追いやられることがある。
 したがって学界で“正説”という言葉は存在すらしない。であるのになぜ“正しい説”に基づいた「正しい教科書」がありえるのだろうか。 政府が作ろうとしているのは「正しい歴史教科書」ではなく「単一国定教科書」であるだけだ。≫

◆ 「正しい歴史教科書」の次に、さらに「正しい・・・」が、連続する危険

これは、パク・チャンスン漢陽大教授(歴史学)による「寄稿」文である。最後まで読むと実に、考えされられることに言及されている。

そして、この文章(記事)は、今の日本の現状に当てはめてみても、―ほとんどと言ってもいいほどにー正確に、その問題点を浮き彫りにしている。


「歴史学界では通説という言葉をよく使い、定説という言葉はあまり使わない」というのは、その通りであろう。

新しい資料が出てくれば、「それまでの説」は、書き換えれれる。場合によっては、まったく、正反対の「評価」に変更されるかもしれない。

「学界で“正説”という言葉は存在すらしない」なら、“正しい説”に基づいた『正しい教科書』」が存在することなど、考えられないのは、理の当然だ。

従って、「『正しい歴史教科書』ではなく『単一国定教科書』であるだけだ」という主張も、説得力がある。


さらに、この記事で共感できる箇所は、末尾の次の記述である。
≪あまりに行き過ぎた想像と言うかも知れないが、「正しい歴史教科書」の次には「正しい国語教科書」、「正しい社会教科書」、「正しい映画」、「正しい小説」、「正しい絵画」、「正しい歌」という話が出てくるかも知れない。 今日、韓国社会にはまだ「私だけが正しい」と言い張る「衛正斥邪」の幽霊が徘徊しているためだ。≫(同上)
上の文章は、今まさに、日本の我々が、真剣に検討すべき内容を含んでいる。

もちろん、私が言いたいのは、安倍首相のことである。
彼が、これから先、これと同じような事をやらないという、保証はどこにもない。

それどころか、すでに、安倍首相は、そこに足を踏み入れている。
そして、彼は、何があっても、けっして「踏みとどまろう」とは、しないであろう。

真の危険は、ここに或る。

(2015年10月14日) 

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