2015年10月16日金曜日

福岡「”サウンドデモ”訴訟」 福岡高裁が県に損害賠償を命令

(記事とは、無関係)
警察にデモの妨害をされたくない。次世代のためにも、デモにもっと自由をという願いを込めて、弁護士を付けずに起こした本人訴訟。
福岡の、いわゆる「”サウンドデモ”訴訟」で、福岡高裁が県に損害賠償を命令した。


「サウンドデモ」をめぐり、「表現の自由」の行使を保障するための警察官の負うべき義務が示され、その義務に違反した、というのが理由である。


◆ 「Net IB News」の記事より
2011年5月8日、福岡市で開催され、主催者発表で約1,200人が参加した脱原発サウンドデモ。その道路使用許可申請において、申請者は、トラックの荷台に積んだスピーカーや音響機器をDJらが操作し、パフォーマンスをするといった情宣活動を行うと説明した。
ところが、福岡県警中央警察署は、申請時に必要とされる『荷台乗車許可申請』について一切教えず、デモ当日になって、荷台のDJらに下車や、荷台に幌をかぶせることなどを命じた。≫

◆ 「本人訴訟」での「勝訴」の意義は大きい

裁判は、損害賠償などを求めたものであったが、1審の福岡地裁に続いて、8月31日の2審の福岡高裁でも、福岡県に損害賠償を命じた

判決は、当然の「判断がなされた」いえる。が、それよりも、すごいことは、「本人訴訟」での裁判であったことだ。

「本人訴訟」とは、当事者が弁護士を付けずに裁判を起こすことをいう。

本人訴訟の特徴として、印紙等実費以外に訴訟にかかる費用が発生しないことが挙げられる。 逆に、デメリットとして、法的な知識の不足に起因する訴訟の難航等が挙げられる。(wikipedia)

当然、法律についての知識が欠かせない。だが、費用面での負担が少なく、「裁判を起こしやすい。もっとも、「敗訴」すれば相手の裁判費用を賠償する必要が出てくるから、「それなりの覚悟」は、必要となる。

また、弁護士と打ち合わせをする必要がないから、その分、時間の節約になる。

ただ、普通、裁判は公開されており、「傍聴すること」が出来るのだから、実際に裁判を「観る」ことで、裁判の形式などに「精通」することは、そう難しいことではないだろう。

日本においては、弁護士費用の点で、裁判を起こしたくても、起こすことが出来ないで、「泣き寝入り」したり、「その筋の人」に解決を依頼したりすることが少ないない、という気がするのであるが、これは、「良き前例」となることだろう。


◆ 我々には「デモ」をする以外に方法がない

「デモは届出制で、許可制ではない。許可が必要ならば、警察はこれも許可を得てくださいと教えるべきだ」という主張は、もっともだ。

そもそも、日本における「デモの規制」は、厳しすぎる。というよりも、「条例」自体が、憲法に違反する条項を含んでいるものが多いのではないか。

それぞれの自治体が、どのような条項を掲げているのか、いちいちは、承知していないが、このたびの国会前での、「安保法案」反対の「デモ」を観れば、大体のところは想像がつく。

狭い歩道に参加者をおしこめたあげくに、警察車両を「ズラー」と並べ、多くの警官を投入して「警備」にあたらせるなど、異常な事態であった。

これも、「歩行者の安全」と「スムーズな交通」を確保するため、という理由でおこなわれたことなのだろう。

もとより、安倍政権自体が、国民の言論の自由と、表現の自由を保障するという姿勢に欠けている以上は、あのような「過剰警備」になることは、不思議なことではないが。

不思議なのは、マスコミがこの」「デモ」を取り上げても、警察の過剰警備については、ほとんど、何も問題視しないことである。

マスコミの姿勢は、むしろ、「「デモをする方の味方」というより、「安倍政権の味方」と言っても良いような報道の仕方をしていたように感じた。

「デモ」をすること自体に、「批判的」であったように感じた。
もちろん、これは私の「思い違い」であるのかもしれない。


政治家は、政治の「プロ」であるから、素人が「ごちゃごちゃと口を出すな」というのは、間違っている。その政治家を選ぶのは、素人である我々なのだから。

そして、我々が、権力の行使を委託した代議士たちが、我々の意に反することをやろうとしたときは、それを阻止する手段としては、我々には「デモ」をする以外に方法がない。

そして、それは、我々に「保障された権利」なのである。その権利を「穏便な方法」で行う限りにおいては、それが全面的に保障されるべきであることは、論を待たない。

したがって、私は、この高裁の判断を支持する。

(関記事案内)
戦争法案に反対する怒りの緊急サウンドドラムデモ(動画)=IWJ
地裁での「判決」は、ココ⇒Daily JCJ


(2015年10月16日)