2015年10月21日水曜日

長谷川光洋氏の「”正義論”が通じる時代は終わった」は、正しいか


「現代ビジネス」サイト上に長谷川光洋氏≪安倍政権「支持率急増」のナゾを読み解く ~サラバ野党!正義論、理想論が通じる時代は終わった≫が、掲載された。
だが、果たして、この長谷川氏の「正義論」への観方は正しいのか。
何も問題はないのか。
いちいち反論をするまでのことではないのであるが、私自身の考えを再度検証するためにも、ここで、論じておきたい。

「安保法案」は、国会で「可決成立」した。
だが、大半の国民は、この法案には反対をしている。

ところが、法案成立後の世論調査では、安倍政権の支持率が上がってきつつある。そこで、長谷川氏の「見解」が登場した。



まず、安倍政権の支持率が急増しているのかという問題があるが、それについては、ここでは議論せず、前提(仮定)として、話を進めたい。


 「正義論=理想論」と、「現実論」

長谷川氏は、「正義論=理想論」の反対に逸するものとして、「現実論」を置く。
そして、次のように言う。

理想論は、≪まず「正しさ」とか「国の理想的なあり方」を先に考えて、そこから政治や政策に対する態度を決めるのだ。≫

それに対して、現実論は、≪現実の安全保障環境を重視する立場がある。安倍晋三政権がなぜ今回、安保法制を見直したかといえば、日本が中国や北朝鮮の脅威にさらされているからだ≫という。

「政治や政策に対する態度を決める」⇔「現実の安全保障環境を重視する」を、対峙させる。

一方には、「論理」を持ってきながら、それに対するものとして、「現実」をもってくる。

しかし、この両者を比較するのであれば、「論理」には、それに反する「論理」を持ってくるべきであろう。

たとえ、「現実論」といえども、それを裏打ちする「論理」があるはずだ。

長谷川氏は、その事には一切触れようとはしない。それとも、氏は、現実論には、裏打ちする「論理」は必要ではない。あるいは、そのようなものは、存在しないと考えているのであろうか。

もし、そうだとしたら、そもそも、この議論はかみ合わない。

私は、たとえ、「現実の安全保障環境を重視する立場」であろうと、その立場を正当化する「理論」がいると、考える。

そうでなければ、「現実論」に基づいた政治・政策は、「行き当たりばったり」の政治・政策になってしまう。


 素朴な正義論と現実論の決定的な違い

また、長谷川氏は、≪素朴な正義論と現実論の決定的な違いは、自分の価値観を優先して考えるか、それとも日本を取り巻く環境評価から出発して政策を考えるか、という点にある。」のだという。

それは、言い換えると「主観的価値観が先か客観的状況が先か、と言ってもいい。」とも述べる。

個々でも。価値観」に対して、「価値観」を持ってこないで、「状況」を持ち出してくる。繰り返しになるが、これでは、比較のしようがない。

ところが、長谷川氏は、≪価値観に基づく正義論にこだわれば「日本は戦争をしてはいけない」という結論になるが、置かれた環境を重視する現実論に立てば「戦争を仕掛けられたら、受けて立たないわけにはいかないだろう」という話になる。≫といって、一方的に「正義論」では、「戦争をしてはいけない」と決めつける。

長谷川氏のいう「正義論」の立場の人々も、「戦争が絶対にいけない。戦争をしない」とは、言っていない。

「防衛戦争」はするが、「我が国から先に攻撃をするような戦争」はしない、と言っているだけである。

個々を長谷川氏は、無視をする。あるいは、「分かっている」のに、わざと避けている。

「素朴な正義論」者も、「現実」を無視している訳ではないのである。ただ、現実の捉え方が、「現実論」者と違うだけのことである。


 正義論」の問題点

長谷川氏は、正義論の問題点について、≪「正しいことを目指すのが政治であり、国のあり方だ」と思い込んでいる点である。残念ながら、政治の世界では正しいことを目指すのが、いつも必ず正しいとは限らない。政治は倫理でも道義でもないからだ。≫という。

そのれいとして、「懲罰を加えるリーダー役であるはずの安全保障理事会の常任理事国自身が公然と乱暴狼藉を働」いていると述べ、ロシアや中国の例に出す。

長谷川氏は、米国や、フランスなどの例は、目に入らないらしい。

岡田克也代表はじめ民主党について、≪党内には集団的自衛権を容認する議員も少なからずいたはずなのに、いざ安倍政権と対峙すると、現実の脅威を置き去りにしたかのような状態で「清く正しく美しく」の観念論が大手を振ってまかり通った。≫と述べる。

ここでも、「現実」を引き合いに出す。上にも述べたように、「現実」は、ただひとつ」という訳ではない。長谷川氏は、けっして、ここを観ようとしない。

「現実」といえば、「絶対的な”現実”」があると考えているように、私には思える。だが、実際の「現実」というものは、「一筋縄」でとらえることが出来るほど、単純でも、簡単でもない。

色々と複雑な要因が絡み合い、捻じれあっていて、目で見ることが出来るほど、単純ではないのである。

それは、ちょうど、川の表面が泡立っていて流れが速い川が、案外、浅いのと反対に、流れがゆったりとしている方が、実際には川が深い、というのに似ている。


 「”政治的”な論というもの」は、ひとつではない

「安保法案」について国民の大半が、反対していた理由は、安倍政権の憲法を無視した「手法」にある

そして、そのためには、「政治権力」を用いてまで、言論を封殺しようとした姿勢にある。

また、党内においての「言論の自由」でさえ、許さなかったところにある。

自民党の国会議員らが、「国民の意思」を無視し、国民の言論の自由の行使に異論を唱え、それを攻撃したことにある。

内閣の改造後に支持率が上がることは、これまでも、よく見られてことである。それは、安倍政権に限ったことではない。

そのことをもっていして、「正義論、理想論が通じる時代は終わった」という評価をするのは、長谷川氏の勝手である。

だが、正義論であれ、理想論であれ、「論というもの」は、ひとつとは限らない。

この点が、長谷川氏が見落としている点でありーあるいは、故意にみのがしているのかー、氏の「現代ビジネス」の記事が、説得力を有しない点である。

(2015年10月21日)