2016年6月28日火曜日

退屈するか、しないかは自分の心がけひとつ

ウエイン・ダイアーは、退屈ということについて、次のように言う。
『人生というのは決して退屈なものではないが、好んで退屈している人間もいるようだ。



退屈するということは、すなわち、現在という時を自分なりに充実して過ごす能力がないということである。退屈するかしないかは自分の選択によって決まる。つまり、自分自身で招くものなのだ。

退屈は自分で自分を駄目にしてしまうものの一つであるが、その気になれば自分の人生から取り除くことができるものである。

ものごとを先へ延ばすというのは、今何をやるか、あるいはまったくやらないかという二者択一に際して、やらないほうを選ぶということなのだ。そして、何もやらなければ当然退屈することになる。』



我々は退屈している理由を、自分の外側に求める。
退屈している原因は、本当は自分自身にあるのに。

「なんてつまらないテレビドラマだ」(テレビを観ていて)
「なんてつまらない、野球の試合をする」(野球観戦で)
「そんなどうでもいい話をいつまで続けるつもりだ」
(居酒屋などで)
「もう少しマシな小説をかいたら、どうだ」
(小説を読んでいて)__

これは、続け要と思えば、えんえんと続く。
だが、小ワラのつまらない原因は、すべて自分にある。

「つまらない」と思いながら、そのような状況に対して何のアクションも起こさない自分自身にある。

テレビドラマがつまらないと思うなら、他の番組にチャンネルを合わせればよい。あるいは、テレビのスイッチを消せばいい。

野球のゲームがつまらないと思うなら、野球場から去ればいい。チケット代を損するって。

そんなことはない。つまらないゲームを「つまらない」と思いながら、見続けるほうが、もっと時間とエネルギーの損である.

居酒屋で飲んでいて、相手がつまらない話ばかりするようなら、店を出ればいい。読んでいる小説がつまらないと思うなら、本を閉じればよい。

そして、自分にとって意味が有ると思える何かを始めればいい。
何を選択するかは、自分の自由に任されているのだから。

(2016年6月28日)



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