2016年6月19日日曜日

自分で自分にレッテルを貼るのは、“愚か者”のすること

ウェイン・ダイヤーは、自分に自分でレッテルを貼るな、と教えて言う。

『自分はいったい誰なのか。自分自身を何と呼べばいいのか。


この2つの質問に答えるためには、たぶん自分の経歴、
つまり今までに送ってきた過去の生活を振り返らなければならないだろう。

人間は過去に確実に縛られていて、
そこから抜け出すのはむずかしいものだ。

自分自身を語るのはどんな言葉だろうか。
今まで集めてきた気のきいた小さなレッテルだろうか。

ずっと変わらずにいることを正当化する手段として、
レッテルを利用するのは簡単である。

(だが)

レッテルに合わせて生きなければならなくなったとき、
その人は存在しなくなるのだ。

自分で自分にレッテルを貼る場合にていても
同じことが言える。』



自分で自分にレッテルを貼ることは、
これからの可能性を否定することになる。

自分自身を否定することになる。

「私は神経質である」
「私は音痴である」
「私はスポーツが苦手である」
「私は数学ができない」
「私は不器用である」

数限り無いほどの「私は…」を、我々は持つ。
良いにしろ 、悪いにしろ。

そして、多くの場合、
そのレッテルは自分自身が成長していくのを
拒否することの言い訳に使われる。

そうすることで自分自身が成長するための努力を
しなくてもすむからである。

だが、自分に自分でレッテルを貼ることほど
「愚か」なことはない。


ましてや、人が他人にレッテルを貼ることほど
「神を冒涜する」ものはない。

キルケゴールはこう言っている。

「もしあなたが私にレッテルを貼るなら、
それは、私の存在を否定することになる」と。

(2016年6月19日)

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