2015年8月9日日曜日

日本人はどう答えるのか WSJ「原爆投下を神に感謝」(Ⅰ)

原爆で焼き殺された少女ら
衝撃的な記事が、掲載せられた。
しかも、その日付は、8月7日である。
タイトルは、「原爆投下を神に感謝」ーしよう―、というものである。
載せたのは、WSJ。
書き手は、ブレット・スティーブンス
(WSJ=ウォール・ストリート・ジャーナル、論説室の副委員長)。

昨日に、この記事をみつけて、一読した。
頭に「血が上って」、どうすることも出来なかった。

散歩の時間の前であったので、外に出た。
稲が青々と生い茂った田んぼを見ながら、歩くうちに、少しづつ、「血が下がって」きた。

今日になって、ようやく、落ち着いてきたので、この記事について、思うところを述べてみたい。これから、何回かに分けて、ゆっくりと、書いていきたいと思っている。


 昭和天皇「原爆投下はやもうえないことと、私は思っています」

で、いざ書き始めようとして、フト、「思いだしたこと」がある。
ふたつのことだ。

ひとつは、昭和天皇の言葉である。
 
1975年10月31日、日本記者クラブ主催の時の、「昭和天皇公式記者会見」の発言だ。

その時、天皇は、原爆投下について―、「遺憾には思っているが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒ではあるが、原爆投下はやもうえないことと、私は思っています」と答えた。

これが、日本の「象徴である」天皇のことばである。
で、我々日本人は、この天皇の言葉をどう受け止めたのであろうか。

「とんでもない発言である」と、マスコミは、天皇を「非難する記事」を載せたであろうか。
国民から、「一斉に反論を受けた」であろうか。

私についてい言えば、―当時は、20歳のころであり―、十分な判断力があったと思うが、天皇がこういう発言をしたことさえ、知らなかった。

戦争を「指導した責任者の天皇」が、こう述べている。
このことを、批判することができないで、WSJの記事を批判することが出来るのか、のかどうか。




◆ 米国の若い世代の半数以上が、原爆投下は、誤り

もう一つは、東京新聞が載せた記事である。

それは、”米世論調査 44歳以下は「原爆投下は誤り」”という記事である。
これは、8月5日の夕刊に掲載された。

≪多数米国民を対象とした日本への原爆投下に関する世論調査で、四十四歳以下の年齢層で「誤った判断だった」と答えた人が「正しい判断」と回答した人より多いという結果が出た。
 四十五歳以上は「正しい」が圧倒的で、世代による意識の差が鮮明になった。「日本に原爆を投下した米政府の判断は正しいか、誤りか」との問いに、全体の46%が「正しい」と回答。「誤り」は29%、「わからない」が26%だった。
 世代別では、十八~二十九歳は「誤り」が45%に上り、「正しい」の31%を上回った。三十~四十四歳でも「誤り」が36%で「正しい」の33%より多かった。≫
この調査結果を見ると、米国において、若い世代ほど、原爆投下に対する「適切な認識が広がりつつある」ことが、解る。

以下に、WSJの記事を、ここに転載しておきたい。(長いが、全文を載せる)

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このコラムのタイトルは文化批評家で戦争回顧録の著者、故ポール・ファッセル氏が1981年に書いたエッセイから拝借した。1945年、21歳だった同氏は米軍少尉としてすでに欧州戦線を戦い、生き延びていた。にもかかわらず、ダウンフォール作戦(米軍の日本本土上陸作戦)への参加を命じられ、数カ月後には太平洋へ派遣されることになっていた。その日本本土上陸作戦は1945年11月に予定されていた。

 ところが、原爆投下でその作戦は中止となった。広島への原爆投下後も降伏しなかった日本だが、長崎への原爆投下後に降伏した。

 筆者は広島へ向かう機内でファッセル氏のエッセイを読んでいた。特に印象深かったのが次の一節である。「数カ月後には東京近くの海岸から突撃射撃をしながら上陸を試み、機銃、迫撃砲、大砲の攻撃を受けることを覚悟していたが、その任務から解放されたという驚くべき朗報を耳にしたとき、何とか勇敢に見せようと冷静を装ってきたにもかかわらず、われわれは安心と喜びで泣き崩れてしまった。これで生きられると実感した」。

 原爆投下70周年を迎えた今週、米国は原爆の被爆者に謝罪しなければならない、核兵器は廃絶されるべきである、広島は非人道的な残虐行為の記念碑だ、日本はもう少しましな形で敗戦を迎えられたはずだ、といったうわべだけの言葉が多く聞かれるだろう。しかし、ファッセル氏が指摘した基本的なポイントが広く理解されるかは疑問だ。広島と長崎への原爆投下は単に戦争を終わらせた恐ろしい出来事ではなかったということだ。多くの人々の命も救ったのである。原爆は大日本帝国を平和主義者の国に変えたのだ。

 筆者は8月3日の午後の大半をそうした活動家の1人で、平和のための「ヒロシマ通訳者グループ(HIP)」を運営する小倉桂子氏と過ごした。広島に原爆が落とされたとき、小倉氏は8歳になったばかりで、実家は爆心地から2.4キロしか離れていなかった。小倉氏は「竜巻のような」爆風、その爆風で割れて実家の壁や梁に突き刺さった無数のガラスの破片が不思議と「光ってきれいに」見えたこと、油っぽい黒い雨などを覚えているという。

 そして市の中心地から、ひどい火傷や重傷を負った避難者たちが水を求めながら「幽霊の行列のように」やって来たことも。彼らは水を飲むとすぐに死んでしまったという。小倉氏の近親者たちは原爆の犠牲にならなかったが、家族がそのことについて話せるようになるまでには数年を要した。

 広島と長崎への原爆投下は実際に起きた出来事なので、その惨状は否定できない。その一方で、本土上陸作戦は中止になったので、実行されていた場合の惨状を否定する声も多い。日本沖で原爆実験をしていれば、日本国民はそれに驚いて降伏していただろうか。日本を降伏に追い込んだのは、長崎への原爆投下よりも、その日に始まったソ連軍による満州侵攻だったのか。本土上陸作戦が実行されていた場合の犠牲者数は、本当に2つの原爆の犠牲者数(25万人近いという説もある)を上回っていたのだろうか。

 われわれには知る由もない。わかっているのは米国が沖縄を制圧するのにさえ、82日間の戦闘と1万4000の米兵の犠牲を要したということである。日本が降伏したからこそ、本土が侵攻された場合には数千人の捕虜を処刑せよという命令が実行されなかったということ、日本の敗戦がすでに濃厚となっていた最後の数週間でさえ、連合軍は週7000人というペースで犠牲者を出していたということもわかっている。

 沖縄を守るために日本軍がほぼ最後の1人まで戦ったということ、数百人の民間人が捕虜になることよりも自殺を選んだということもわかっている。本土を守るのに、日本国民はそこまで必死にならなかったはずだと言い切れるだろうか。われわれにはその確証を得る術がない。

 ファッセル氏はこう書いている。「過去を理解するには、現在のことを知らない自分になり切る必要がある。事後の悟りの一切を排除して自分の脈拍にそのプレッシャーを感じなければならない」。歴史的な審判は、結果のみならず、選択肢にも考慮して下される必要がある。当時のトルーマン米大統領が週7000人の犠牲者を出し続けることを選び、原爆投下を回避していたら、味方の命よりも敵の命を思いやっていたら、われわれの大統領に対する評価は高まっていただろうか。

 そうした状況下で2つの原爆が投下され、日本は敗れた。完全な敗戦である。軍事力に物を言わせて主張を通す傾向がある文化がなくなった現代の日本は、その完敗にも恩恵があったということを証明している。現代の広島は大惨事に直面した人間の回復力を証明している。確かなモラルや強い復讐への渇望でさえも寛大さへの障害にならないことを理解した米国の証でもある。そうしたことはある意味、寛大さの前提条件なのだ。

 広島はあまりにも長きにわたり、ある種の左翼政治、暗黙の反米主義に塩漬けされた退屈な反戦主義と関連付けられてきた。これは残念なことだ。米軍が勝利という言葉を禁止し、米国の大統領が軍事力の行使を信じず、米国民が犯してもいない罪に罪悪感に苛まれている今日、われわれは広島の歴史から教訓を得るべきだろう。

 広島の夜の明かりを見れば、その文化の穏やかさに気付くことだろう。
原爆が投下されたことを神に感謝しよう。(WSJ)

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 この記事(WSJの)は、「日本人よ、感謝せよ」、と呼びかけている

ちなみに、この記事は、「ヤフー」、「ブロゴス」などが、取り上げている。
大手の新聞は、まだ、取り上げてはいないと思う。(すでに取り上げているところがあれば、これは訂正にひつようがあるが)

一読されて、どんな感想を持たれたことであろうか。

私は、最後の結びの言葉の前に、「日本人よ」と付け加えることで、この文章は、完成する、と感じた。

ブレット・スティーブンス氏は、われわれに「成り代わり」、原爆が投下されたことを神に感謝しよう、とよびかけているのである。

さて、我々は、どう答えればいいのだろうか。
安倍政権は。マスコミは。知識人は。

この「呼びかけ」に、どう答えるのであろうか。


(2015年8月9日)