朝鮮戦争 |
「武藤氏よ、絶対に、”撤回”をするな」。
戦争が起こったら、自分が率先して、「戦地へ行け」と。
「原爆の日」である。
戦争に関することを、記事にしておきたい。
そこで、もう一度(しつこいようだが)、武藤議員のことを取り上げる。
それほど、戦争が好きなら、この法案が成立して、自衛隊が、「海外に派兵」されることになった時は、「あなたも、一緒に行け」ばいい。嫌と言っている若者に、強制するな。
武藤議員が否定しているのは、①自由と民主主義のための「行動」、②極端な利己的考え(=自分中心の考え)③戦後教育、この3点である。
1) 自由や民主主義があってこそ、初めて、我々の生活が、保障される
彼らが、国会前において、何故、演説をしているのか。
その目的は、安保法案に反対するためである。
安保法案は、別名「戦争法案」と、呼ばれている。
これは、「ちまた」においてだけでなく、国会議員も、使っている。
そして、そのこと―安保法案=戦争法案―は、国会の審議が進む中において、ますます、ハッキリとしてきつつある。これは、たんなる「レッテル」ではない、ことが証明されつつある。
そいういうなかにあって、彼らは、自由と民主主義のために「立ち上がる」という「行動」を、選択した。
武藤氏といえども、「自由と民主主義のための行動」を否定することは、出来まい。
それさえも、否定するというのであれば、「即刻、国会議員を辞職すべきだ」となる。
それは、わざわざ、憲法の規定を持ち出すまでもないことである。
自由や民主主義があってこそ、初めて、我々の生活が、保障される。
「命と暮らし」が、成り立つ。
幸福な人生が、約束される条件が、出来る。
それは、かっての「ソ連」や、「北朝鮮」の例だけでなく、戦前の「日本」のことを考えれば、解ることである。
大学院で学んだ武藤氏であれば、先刻承知のことのはずだ。
2) 「戦争に行きたくない」、「死にたくない」と思うのは、あたりまえの考えだ
「戦争に行きたくない」ということが、なぜ、極端な利己的考え(=自分中心の考え)になるのであろうか。
武藤氏は、文字制限がある「ツイッター」では、「十分に思い」を述べることが出来ない、というような「弁解めいたこと」を言っているようだが、そんなことは「言い訳」にはならない。
それは、記事を投稿するまえから、解っていることである。それを解ったうえで、「利用する」というのが、「ツイッター」のポリシーだ。
そんなことも、よく考えないで、記事を投稿していたとするなら、「自己責任」の自覚がなかった、という事になる。自分が、「国会議員である」という自覚に欠けていた、ということになるのだ。
若者が、「「戦争に行きたくない」というのが「ケシカラン」というなら、武藤氏は―若者に―「戦争に行きたい」と言えと、いいたいのか。
「戦争に行きたい」という考えは、「他人を尊重する考え」であり、それは「すばらしい」考えと、思うのか。
「他人のために奉仕する」考えであり、「尊重すべき」考えである、と思うのか。
「戦争に行く」という事は、互いに「殺し、殺されに行く」という事に他ならない。
それを「すばらしく、重要」で、「価値」がある考え、とでも言いたいのか。
とんでもないことである。
本当に心からそう思うのなら、まず、武藤氏が、「率先」して、「兵隊を率いて」戦場に、出ていかれよ。
それをする覚悟があってこそ、初めて、彼らを「批判する資格」ができる。
それができないのなら、「戦争に行きたくない=極端な利己的考え(=自分中心の考え」と、彼らを批判することは、すべきではない。
3) 教育の目的は、「人格の完成」(自己の完成)を目指すことにある
彼らが、安保法案に反対する行動をとった原因を、戦後教育に「おしつけている」ことも、看過できない。
いまさら言うまでもなく、教育の目的は、「人格の完成」を目指して行われるものである。
それは、まず、「個人」を相手に行われる。
社会のためではないのである。
教育の結果として、「社会に役立つ人間」を造ることになっても、あくまで、それは、二次的なことである。
教育の本質からは、「離れた」ことである。
まず、しっかりとした個人を造る、このことが要請される。
「自分自身を、大切にする」人間を造る、これが最重要課題なのである。
自分自身を「大切に出来てこそ」、はじめて、「他人を大切」に出来るからである。
自分自身を大切にし、「自分で自分を救う」(もしくは、育てる)、これが出来てこそ、はじめて、「他人をも、救える」のだ。
「自分さえ救う」ことが出来ないのに、「他人を救おう」などと考えること自体が、「おこがましい」と言わねばならない。
繰り返すと、教育の目的は、「戦争に行きたい=国のために、”死にたい”という若者を育てることではない。
若いということは、「すばらしい」ことだ。
その素晴らしい「命」を、自分の力の限り伸ばしたい。
立派な人間になることをめざし、力の限り生きたい。生き抜きたい。
将来は、幸せな家庭を築きたい。
そして、自分の子供にも、また、同じように幸福な人生を歩んでもらいたい。
そう思うのは、自然なことだ。
その結果として、「戦争に行きたくない」、「死にたくない」と叫ぶのは、当然の要求である。
(2015年8月6日)