これで、武藤議員について、4度目の投稿になる。
今回は、ハッキリと、武藤議員が、辞職をすべきである、と論じた。
その理由は、議員が、「憲法三原則」を否定する記事を載せ、今もそれを削除せずにいるからである。
繰り返し、何度もこのブログで、武藤議員のことを論じているのは、「若い経験の少ない議員の発言である」と看過できない、問題を含んでいるからである。
今の日本の国会は、自民党一強の体制にある。
このことは、当分の間、変化することはないであろう。
そうだとすると、武藤議員のような、考え(思想)をもった人物が、これからの政治を運営していくことになる。
今回は、ハッキリと、武藤議員が、辞職をすべきである、と論じた。
その理由は、議員が、「憲法三原則」を否定する記事を載せ、今もそれを削除せずにいるからである。
繰り返し、何度もこのブログで、武藤議員のことを論じているのは、「若い経験の少ない議員の発言である」と看過できない、問題を含んでいるからである。
今の日本の国会は、自民党一強の体制にある。
このことは、当分の間、変化することはないであろう。
そうだとすると、武藤議員のような、考え(思想)をもった人物が、これからの政治を運営していくことになる。
さらに、問題なのは、自民党内において、この武藤議員の発言が、「問題視」されていないことにある。(党内の一部から、批判がでているようだが、それは、「彼の発言そのもの」に対する批判というより、安保法案の審議影響する、という理由からである。)
切り貼りをするより、全文を読んで頂くほうが、正確に彼の考え(思想)が伝わると思うので、コピペしておきたい。(読みやすくするために、私が適当に区切った。文字が赤くなっているのも、同様。)
2012年7月23日のサイトの記事から。
2012年7月23日のサイトの記事から。
≪戦後の日本はこの三大原理を疑うことなく「至高のもの」として崇めてきた。しかしそうした思想を掲げ社会がどんどん荒廃していくのであるから、そろそろ疑ってみなければならない。むしろ私はこの三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている。
まず「国民主権」について。「国民主権」とは「国家の政策決定権は国民一人一人にある」という民主主義の根本思想であるが、長谷川三千子先生によれば、そもそも「民主主義とは、人間に理性を使わせないシステム」である。つまり民主主義が具体化された選挙の「投票行動」そのものが「教養」「理性」「配慮」「熟慮」などといったものに全く支えられていないからである。
しかしながらこのことは、世界の歴史を見ると第一次世界大戦以前は常識であった。第一次世界大戦前は、民主主義はすぐに衆愚政治に陥る可能性のある「いかがわしいもの」であり、フランス革命時には「恐怖政治」を意味した。民衆が「パンとサーカス」を求めて国王・王妃を処刑してしまったからである。
戦前の日本では「元老院制度」や「御前会議」などが衆愚政治に陥らない為のシステムとして存在していた。しかし戦後の日本は新しい「日本国憲法」の思想のもとで、民主主義を疑わず、またその持つ問題点を議論することなく、衆愚政治に陥ることを防ぐシステムもつくらず、ただただ「民意」を「至高の法」としてしまった。
次に「基本的人権の尊重」について。私はこれが日本精神を破壊した「主犯」だと考えているが、この「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。全ての国民は、国家があり、地域があり、家族があり、その中で生きている。国家が滅ぼされてしまったら、当然その国の国民も滅びてしまう。
従って、国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」という「日本精神」があったことは言うまでも無い。
だからこそ第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。「基本的人権の尊重」という言葉に表された思想の根底には、国家がどうなろうと社会がどうなろうと自分の「基本的人権」は守られるべきだという、身勝手な「個人主義」が存在している。
従って、国民は国家や社会に奉仕することをしなくなり、その身勝手な個人主義に基づく投票行動が政治を衆愚政治に向かわせ、政治は大衆迎合するようになっていった。それは言うまでも無く「国民の生活が第一」を高らかに叫ぶ今の政治に如実に表れている。
三番目の「平和主義」については、言わずもがなである。国際社会は、冷酷に国益と国益がぶつかり合う「無政府状態」の「争奪・略奪社会」である。そこに日本精神である「正直さ」や「譲り合い」といったたぐいの精神は微塵も存在しない。それは尖閣諸島問題を見れば明らかである。
にもかかわらず「日本国憲法」は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べ、「戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認」を規定した。冷静に考えれば、これでは到底他国の侵略に備えることは出来ない。そのことがわかっているからこそ、日本は自衛隊をつくり維持して来たはずである。
以上述べたように「日本国憲法」の問題は9条の問題だけではない。「日本国憲法」の思想そのものが「日本精神」を破壊してしまったと私は考えている。
今の荒廃した政治、社会をよく見つめなおし、国家の在り方の基本である憲法をしっかり論じることが必要であると思う。そしてそのことが「日本精神」・「日本人的価値観」を取り戻す「カギ」になると私は思う。≫武藤氏は、この文章で、 「日本精神=滅私奉公」と、規定する。
いろいろと書かれているが、これこそが、彼が言いたいことの「すべて」だろう。
◆ 「日本国憲法」を、蹂躙した武藤議員は、辞職すべきだ
彼は、日本国憲法の思想そのものが、「日本精神」を破壊してしまった、と考えており、ハッキリと、憲法の三大原則(国民主権、平和主義、基本的人権の尊重)を否定する。
彼は、「慎重にも」(当然の反論を予想しているのか)、日本を破壊した、と書かず、「日本精神」を破壊した、とかく。
だが、この文の全体を読めば、「日本精神の破壊」が、「日本の破壊」とイコールである、と認識していることは、間違いがない。
同時に、それは、彼の行動の全体を通して、示されている。
「文化芸術懇話会」のメンバーであること。(しかも、彼は、発起人の一人である。)
安保不安に反対する、若者のデモを批判した、「戦争に行きたくないじゃん」という、ツイート。しかも、その書き込みを撤回も、否定もしないこと。
これらは、全て同じ線上にある。
どちらにしても、武藤議員が、まったく、「日本国憲法」を、蹂躙していることは、間違いがない。
私は、このブログで、「武藤議員の発言は、辞職に値する」と書いたが、「間違い」であった。
今、ハッキリと、「武藤議員は、辞職すべき」だと、考える。
我々が、自分の意見を表明することは自由である。
例え、国会議員と言えども、それは、同じことであると考える。
だが、国会議員は、我々のような、「普通の市民」とは、立場が違う。
その発言には、「重み」がある。責任が伴う。
これは、国会議員としての「資格を問われる」べき、発言である。
国会が、この発言を軽視することがあれば、それは、「国会自体」がこの発言を認めた」、という事になる。
また、自民党が、この発言を「放置」しておいた事も、党として、「危機管理」が十分でなかった、と反省をすべきであると思う。
(関連サイト案内)
★ 自民・武藤貴也議員 「憲法が日本精神を破壊」の暴言で大炎上=日刊ゲンダイ
★ 自民党武藤貴也議員「トンデモ発言」憲法3原則否定=日刊スポーツ
(2015年8月9日)