米国の、「女性の話」である。
その女性の「言い訳」がすごい。
「「ただ殺したんじゃない。ハンティングだ。」と、いうものだ。
記事は、この女性のことを、「女性ハンター」と、呼んでいる。
残念ながら、この女性が、インタヴューで何を語ったのかは、―元記事を読むことが出来ない(記事はあるが、英文)なので)―よくは、解らない。
1) 「ハンティング」への「非難に対する「反論」に、聖書を引用するとは
事の次第は、こうである。
そのライオンが、歯科医のハンターに殺された。
そのことで、世界中から、非難を受けている。
そしてまた、同じような、非難が殺到すると思われる、「動物の殺害」に関する「記事」が、「女性ハンター」によって、掲載された。
そして、この女性の「記事」の反響に対する、「反論」が、これだ。
2) 「神聖」な目的で、スポーツ(ハンティング)をしていたとは、到底思えない
聖書を持ち出した時点で、「突っ込みどころ」は、「無限」といってもよいほどに、生まれてくる。
それをすべてとりあげていたら、「キリ」がなくなる。
それで、「狩猟」に限定して、思うところを述べてみたい。
まず、「ハンティング」という言葉についてである。
「ハンティング」には、二つの意味合いがあると思う。
ひとつは、「純粋な」狩猟(=殺した動物を売って、お金を稼ぐ仕事)ということ。
もう一つは、「スポーツとして」の狩猟という意味合い、である。
この女性は、「ただ殺したんじゃない。ハンティングだ」というが、彼女には、「れっきとした」職業が、ほかにある。それは、大学における「経理」の担当者という仕事だ。
そうすると、彼女がいう「「ハンティング」とは、「スポーツとして」の狩猟に他ならない、という事になる。
とてものこと、「純粋な」狩猟をしていたとは、思えない。
もちろん、大学における「経理」を担当者しながらも、「純粋な」狩猟を行っていた、という観方もできるが。
しかし、「純粋な」狩猟を仕事としている人が、「狩った」動物との写真を撮るとは、思えない。まして、その写真を「公開する」などとは、到底思えない。
だから、彼女は、「スポーツとして」の狩猟をしていた、とみて間違いがなかろう。
もし、そうだとすると、「ただ殺したんじゃない」という彼女の「考え」は、「とんでもないもの」である、と思う。
「ただ殺した」のではなく、スポーツとして、「楽しみ」として、動物を「狩り」殺した、という事になると思うからだ。
彼女は、「楽しみ」としてスポーツをしていない、というかもしれない。
もし、スポーツが、「楽しみ」としておこなわれるものでないとすれば、ほかにどんな目的が、あるのだろう。「神聖」な目的がある、とでもいうのか。
―仮に、そのような目的があることを認めたとしても―殺した動物と一緒に写真に納まり、その写真を公開するような人物が、「神聖」な目的を持って、スポーツをしていたとは、到底思えない。
そうであるのに、よりにもよって、「楽しみ」として、「狩猟」を正当化するのに、聖書を持ち出すとは、「不見識も甚だしい」と、思う。
まったく、その態度には、恐れ入る。
3) クジラ漁は、正当な「狩猟」である、という事になる
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」ということは、すべの動物を「殺して」もよい、ということだ。
米国人は、日本人の「クジラ漁」を、目の敵にして、非難する。
が、「彼女の論理」に従えば、―それは、聖書を援用した「論理」であるがークジラ漁は、正当な「狩猟」である、という事になる。
彼女や、彼女の行動を「正当である」と認める人々は、「シーシェパード」の行動を、どう思うのか。彼らの「論理」からすれば、それは「正しい」ことになる。
「シーシェパード」が、行っている「理不尽な行動」にたいしても、反対の意思を表明してもらいたい。
自分が、殺した動物と一緒の写真を写し、それを公開しておきながら、「動物たちには尊敬の念を持っている」と、彼女は述べる。
私には、到底理解できない、「行い」であり、「考え」である。
はたして、「神」は、それを、「許したもう」のであろうか。
(2015年8月6日)
その女性の「言い訳」がすごい。
「「ただ殺したんじゃない。ハンティングだ。」と、いうものだ。
記事は、この女性のことを、「女性ハンター」と、呼んでいる。
残念ながら、この女性が、インタヴューで何を語ったのかは、―元記事を読むことが出来ない(記事はあるが、英文)なので)―よくは、解らない。
1) 「ハンティング」への「非難に対する「反論」に、聖書を引用するとは
事の次第は、こうである。
「ジンバブエの人気ライオン「セシル」が歯科医のハンターに殺害された問題が世界中で批判を浴びる中、同じくネット上にハンティングで殺害した動物の写真を掲載しているアメリカ・アイダホ州の女性ハンター、サブリナ・コーガテッリ氏が開き直りともとれるコメントを発表して非難が集中している。」「セシル」と呼ばれるライオンがいた。
そのライオンが、歯科医のハンターに殺された。
そのことで、世界中から、非難を受けている。
そしてまた、同じような、非難が殺到すると思われる、「動物の殺害」に関する「記事」が、「女性ハンター」によって、掲載された。
そして、この女性の「記事」の反響に対する、「反論」が、これだ。
「数多くの批判コメントが殺到する中、コーガテッリ氏はNBCテレビの朝の番組『TODAY』のキャスター、カーソン・ダリー氏のインタビューに次のように答えた。また、この女性は、「ハンティング」への非難に対する「反論」し、聖書を引用して、こう述べる。
『私にとって、これはただ動物を殺したわけじゃないんです。ハンティングなんです』」
”「旧約聖書の創世記9章3節にはこう書かれています。『動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える』・・・・
「27章3節にはこう書かれています。『今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、 わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい』」
2) 「神聖」な目的で、スポーツ(ハンティング)をしていたとは、到底思えない
聖書を持ち出した時点で、「突っ込みどころ」は、「無限」といってもよいほどに、生まれてくる。
それをすべてとりあげていたら、「キリ」がなくなる。
それで、「狩猟」に限定して、思うところを述べてみたい。
まず、「ハンティング」という言葉についてである。
「ハンティング」には、二つの意味合いがあると思う。
ひとつは、「純粋な」狩猟(=殺した動物を売って、お金を稼ぐ仕事)ということ。
もう一つは、「スポーツとして」の狩猟という意味合い、である。
この女性は、「ただ殺したんじゃない。ハンティングだ」というが、彼女には、「れっきとした」職業が、ほかにある。それは、大学における「経理」の担当者という仕事だ。
そうすると、彼女がいう「「ハンティング」とは、「スポーツとして」の狩猟に他ならない、という事になる。
とてものこと、「純粋な」狩猟をしていたとは、思えない。
もちろん、大学における「経理」を担当者しながらも、「純粋な」狩猟を行っていた、という観方もできるが。
しかし、「純粋な」狩猟を仕事としている人が、「狩った」動物との写真を撮るとは、思えない。まして、その写真を「公開する」などとは、到底思えない。
だから、彼女は、「スポーツとして」の狩猟をしていた、とみて間違いがなかろう。
もし、そうだとすると、「ただ殺したんじゃない」という彼女の「考え」は、「とんでもないもの」である、と思う。
「ただ殺した」のではなく、スポーツとして、「楽しみ」として、動物を「狩り」殺した、という事になると思うからだ。
彼女は、「楽しみ」としてスポーツをしていない、というかもしれない。
もし、スポーツが、「楽しみ」としておこなわれるものでないとすれば、ほかにどんな目的が、あるのだろう。「神聖」な目的がある、とでもいうのか。
―仮に、そのような目的があることを認めたとしても―殺した動物と一緒に写真に納まり、その写真を公開するような人物が、「神聖」な目的を持って、スポーツをしていたとは、到底思えない。
そうであるのに、よりにもよって、「楽しみ」として、「狩猟」を正当化するのに、聖書を持ち出すとは、「不見識も甚だしい」と、思う。
まったく、その態度には、恐れ入る。
3) クジラ漁は、正当な「狩猟」である、という事になる
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」ということは、すべの動物を「殺して」もよい、ということだ。
米国人は、日本人の「クジラ漁」を、目の敵にして、非難する。
が、「彼女の論理」に従えば、―それは、聖書を援用した「論理」であるがークジラ漁は、正当な「狩猟」である、という事になる。
彼女や、彼女の行動を「正当である」と認める人々は、「シーシェパード」の行動を、どう思うのか。彼らの「論理」からすれば、それは「正しい」ことになる。
「シーシェパード」が、行っている「理不尽な行動」にたいしても、反対の意思を表明してもらいたい。
自分が、殺した動物と一緒の写真を写し、それを公開しておきながら、「動物たちには尊敬の念を持っている」と、彼女は述べる。
私には、到底理解できない、「行い」であり、「考え」である。
はたして、「神」は、それを、「許したもう」のであろうか。
(2015年8月6日)