もともと、そのような「資質』を備えた人物を選んだことが、間違いである、と言ってしまえば、それまでのことかも知れない。
女子高生に、「三角関数を教えて何になる。花や草の名前を教えた方がいい」とは、「不見識」極まる。
鹿児島県の伊藤祐一郎知事の「発言」である。
この知事は、(原子力事故が起きても原発から5.5キロの放射線量は毎時5マイクロシーベルトだとした上で)「避難の必要がない。普通に生活してもいい」、「もし福島みたいなことが起きても、もう命の問題なんか発生しない」と発言した事でも知られる。(「wki」)
会議には、女性の委員もいたという事だ。「その発言は、おかしい」という意見が出なかったのであろうか。それも、「不思議なこと」だ。
◆ 言い訳にもならない、「子供じみた」釈明をする知事の「資質」こそが・・・
問題の発言は、県の総合教育会議においてなされた、という。
おまけに会見では、ご丁寧にも、「サイン、コサイン、タンジェントの公式をみなさん覚えていますか。私もサイン、コサインを人生で1回使いました」と、言い訳にもならない、「子供じみた」釈明をおこなった。
この発言が、「恥の上塗り」であることさえ、この知事は、「理解」出来ていないようだ。
(まったく、反省の色を見せない「表情」で、言い訳をする知事。また、FNNのコメントも、「いい加減」なものだ。笑いながら、とは、「ふざけている」)
◆ 教育が、「教科制」になっていることを、まったく理解していない発言
そうなら、おたずねしよう。
知事は、「人生で1回使いました」というが、いつのことか。
たった、「1回使った」だけで、知事は、ラ・サール高校を卒業し、東大に合格できたのか。そして、国家公務員の試験にも、合格できたのか。
ラ・サール高校、東大、国家公務員の試験とは、それほどまでに、「レベルの低い」学力で、通用するものなのか。
「それよりもう少し社会の事象とか植物の花や草の名前を教えた方がいいのかなあ」という発言に至っては、「馬鹿も休み休みに言え」と言いたくなる。
本気で、そう思っているとしたら、「つける薬」がない。
この発言は、今の教育(これまでの教育でもそうであるのに)が、「教科制」になっていることを、まったくわかっていない、発言だ。
あらためて言うまでもなく、社会の事象を教えるのは「社会科」、植物の花や草の名前を教える(仮の教える事があるとすれば)のは「生物科」だ。
「サイン、コサイン、タンジェントの公式は、「数学科」だ。
いくらなんでも、これくらいのことは、「常識」だろう。
それにもして、「不見識である」と思うのは、”どこの世界に、高校生に「植物の花や草の名前を教える」”学校がある。このことである。
何よりも、問題なのは、”「すぐに役に立つ」ことを教えることが、「教育である」と勘違いしている”点だ。(このことについては、書いていくと長くなるので、別の機会に回したい。)
◆ 後から「撤回」すれば、それで「済ます」いい加減な「風潮」が、問題だ
もし、本当に「口が滑った。女性を蔑視しようということではない」というのなら、その場において、「訂正」すべきであろう。
それをしなかったという事は、この「発言が公になった」ので、「苦し紛れ」に、言い訳をした、としか思えない。
おそらくは、この「釈明」を聴いた国民の多くは、そう思う事であろう。
それにしても、こういう「不祥事」が多すぎる。
その場で訂正をせずに、後になって「問題視」されてから、初めて「訂正をする」というのは、「本心」は別のところにある。そういうことの証明である、と私は思う。
今の国会で、あれほどまでに「問題」になり、安倍首相の責任が「取沙汰」されているにもかかわらず、また、同じことが繰り返される。
それにしても、責任ある立場の「政治家や、国会議員」による、「不見識、非常識、無責任」な発言が多すぎる。
それは、どのような発言をしようと、あとから「撤回」すればそれで「済ます」という、いい加減な「風潮」が、このような発言が後を絶たない原因である。
そう思う。
それを防ぐには、「撤回したことで済ます」のではなく、撤回をする理由はなにか。なぜ、そういう発言をしたのか。
その事の責任を、厳しい追及すべきである。
追及するだけでなく、それなりの「責任」を、取らせる必要がある、と思う。
(関連サイト案内)
・曽根綾子(「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」と、発言した問題。)=wikipeda
・曽野綾子氏コラムに「アパルトヘイトを賛美し、首相に恥をかかせる」=HUFF POST
(2015年8月28日)
女子高生に、「三角関数を教えて何になる。花や草の名前を教えた方がいい」とは、「不見識」極まる。
鹿児島県の伊藤祐一郎知事の「発言」である。
この知事は、(原子力事故が起きても原発から5.5キロの放射線量は毎時5マイクロシーベルトだとした上で)「避難の必要がない。普通に生活してもいい」、「もし福島みたいなことが起きても、もう命の問題なんか発生しない」と発言した事でも知られる。(「wki」)
会議には、女性の委員もいたという事だ。「その発言は、おかしい」という意見が出なかったのであろうか。それも、「不思議なこと」だ。
◆ 言い訳にもならない、「子供じみた」釈明をする知事の「資質」こそが・・・
問題の発言は、県の総合教育会議においてなされた、という。
≪鹿児島県の伊藤祐一郎知事が、27日に開かれた県の総合教育会議で、女性の高校教育のあり方について、「高校でサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」「それよりもう少し社会の事象とか植物の花や草の名前を教えた方がいいのかなあ」と述べていたことが分かった。知事は28日の定例記者会見で「口が滑った。女性を蔑視しようということではない」と発言を撤回する考えを示した。≫
おまけに会見では、ご丁寧にも、「サイン、コサイン、タンジェントの公式をみなさん覚えていますか。私もサイン、コサインを人生で1回使いました」と、言い訳にもならない、「子供じみた」釈明をおこなった。
この発言が、「恥の上塗り」であることさえ、この知事は、「理解」出来ていないようだ。
(まったく、反省の色を見せない「表情」で、言い訳をする知事。また、FNNのコメントも、「いい加減」なものだ。笑いながら、とは、「ふざけている」)
◆ 教育が、「教科制」になっていることを、まったく理解していない発言
そうなら、おたずねしよう。
知事は、「人生で1回使いました」というが、いつのことか。
たった、「1回使った」だけで、知事は、ラ・サール高校を卒業し、東大に合格できたのか。そして、国家公務員の試験にも、合格できたのか。
ラ・サール高校、東大、国家公務員の試験とは、それほどまでに、「レベルの低い」学力で、通用するものなのか。
「それよりもう少し社会の事象とか植物の花や草の名前を教えた方がいいのかなあ」という発言に至っては、「馬鹿も休み休みに言え」と言いたくなる。
本気で、そう思っているとしたら、「つける薬」がない。
この発言は、今の教育(これまでの教育でもそうであるのに)が、「教科制」になっていることを、まったくわかっていない、発言だ。
あらためて言うまでもなく、社会の事象を教えるのは「社会科」、植物の花や草の名前を教える(仮の教える事があるとすれば)のは「生物科」だ。
「サイン、コサイン、タンジェントの公式は、「数学科」だ。
いくらなんでも、これくらいのことは、「常識」だろう。
それにもして、「不見識である」と思うのは、”どこの世界に、高校生に「植物の花や草の名前を教える」”学校がある。このことである。
何よりも、問題なのは、”「すぐに役に立つ」ことを教えることが、「教育である」と勘違いしている”点だ。(このことについては、書いていくと長くなるので、別の機会に回したい。)
◆ 後から「撤回」すれば、それで「済ます」いい加減な「風潮」が、問題だ
会見では、「口が滑った。女性を蔑視しようということではない」と発言を撤回する考えを示した、そうだ。
もし、本当に「口が滑った。女性を蔑視しようということではない」というのなら、その場において、「訂正」すべきであろう。
それをしなかったという事は、この「発言が公になった」ので、「苦し紛れ」に、言い訳をした、としか思えない。
おそらくは、この「釈明」を聴いた国民の多くは、そう思う事であろう。
それにしても、こういう「不祥事」が多すぎる。
その場で訂正をせずに、後になって「問題視」されてから、初めて「訂正をする」というのは、「本心」は別のところにある。そういうことの証明である、と私は思う。
今の国会で、あれほどまでに「問題」になり、安倍首相の責任が「取沙汰」されているにもかかわらず、また、同じことが繰り返される。
それにしても、責任ある立場の「政治家や、国会議員」による、「不見識、非常識、無責任」な発言が多すぎる。
それは、どのような発言をしようと、あとから「撤回」すればそれで「済ます」という、いい加減な「風潮」が、このような発言が後を絶たない原因である。
そう思う。
それを防ぐには、「撤回したことで済ます」のではなく、撤回をする理由はなにか。なぜ、そういう発言をしたのか。
その事の責任を、厳しい追及すべきである。
追及するだけでなく、それなりの「責任」を、取らせる必要がある、と思う。
(関連サイト案内)
・曽根綾子(「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」と、発言した問題。)=wikipeda
(2015年8月28日)