今、私は、再び悲惨な歴史を繰り返さないために、心より言いたい。
「日本の全国の、安保法案に反対する人々よ。団結せよ」と。
「現代が、やがて歴史になることは、誰もが知っている」。これは、アメリカの経済学者、P・M・スウィージーの『歴史としての現代』と
いう書の、「書き出し」の言葉である。
P・M・スウィージーの、この言葉は、我々日本人の誰もが、解っていることであろう。
だが、ほんとうに、「解っている」と言えるのだろうか。
また、ただ、「解っている」という事だけで、いいのだろうか。
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われわれは、広島の「原爆死没者慰霊碑」に、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と、刻んだ。
この言葉は、「誰の、どんな過ち」なのかという事を示す言葉が、抜けている。(その理由は、よくわからないが)
では、この言葉の前には、どんな言葉を書き入れるのが、よいであろうか。
「誰の」というところには、「我々、多くの日本人」という言葉が、入る。
「どんな過ち」というところには、「政府の行為を許し、戦争の惨禍を招いたこと」という言葉が、適当である。
人によって、それぞれに「考えは違う」と思うが、私はこう考える。
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現代に生きる我々は、過去に生きた人々の「愚行」を、「何という馬鹿なことをしたものだ」と、批判する。
そうであるなら、現代に生きる我々も、やがては、「未来の人びと」によって、「何という馬鹿なことをしたものだ」と、いう批判をうける「可能性」を否定できない。
我々が、そういう「「未来の人びとからの批判」を受けることなく、賢明に今日を生きるには、「現代を生きながら」、同時に、「未来に生きる」目を持つことが、必要となろう。
今、日本中が、安倍政権が行おうとしている、「集団的自衛権の行使」を容認する法案のために、「大騒ぎ」の状態にある。
国会の審議は、連日「紛糾」し、マスコミがこの話題を書かない「日」はない。
一方、国民も、国会周辺で、連日「法案に反対するデモ」を、繰り返している。
国会周辺だけでなく、日本の各地でも、デモ行進は、続いている。
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そんな中において、与党である自民党のなかから、「マスコミを懲らしめる」という発言が、「執拗(執拗)」におこなわれた。
また、―ヨリにもヨって―、首相補佐官が、公開の講演において、法案の「法的安定性は、関係がない」と、言い放った。
さらには、事もあろうに、自民党の若い衆議院議員が、法案に反対してデモを行っている若者に対して―彼らの思想を、「戦争に行きたくないじゃん」=極端な自己中心的な考えである」として―、「ツイッター」で批判する記事を投稿した。
まるで、日本の国民のためなら、「喜んで戦争に行きます」と言え、とも取れるような「書き込み」をした。
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今、我々日本人の多くに求められているのは、未来の人びとから、「何という愚かな決断をした」、という誹り(そしり)を受けることがないように、行動をすることである。
安倍政権が、「ごり押し」しようとしている「安保法案」を、何としても「阻止」することである。
そのためには、「力の結集」が、必要だ。
安保法案に反対する人びとの、「すべての力」を、ひとつに集めて行動することが、求められている。
私は今、「日本の全国の、安保法案に反対する人々よ。団結せよ」と、叫びたい。
今なら、決定権は、まだ、我々の元にある。
「歴史の彼方」に行ってしまっているわけでは、ないのである。
(2015年8月7日)