参議院における安保法案の審議が、止まったままである。
一方で、国民の安保法案に反対するデモは、ますます、大きな広がりを見せている。
安保法案に反対する、このデモには、十分に、「意味」がある。これは、国民の「止むに止まれぬ」魂の叫び声なのである。
今や、デモの参加者は、「普通」の、オバサンや、オッチャンだけでなく、高校生にまで、広がっている。その彼らが、暑い太陽の下、連日デモを行っている。
そういう中にあって、このデモについて、「無意味である」という主張がなされている。
あるいは、国民の多くが選挙において、自民党や公明党を支持したのだから、デモをするのは、「おかしい」といった議論も、見られる。
はたして、これらの主張や議論は、「正しい」のであろうか。
◆ 今やデモの参加者は、「リベラル」思想の持ち主だけではない
安保法案についての議論が、盛んにネット上に掲載されている。
いろいろな議論がある中で、読むに堪えないものから、まじめな議論まで、主要な論点は、出尽くした感がある。
その中では、国会前のデモに関する記述がある。
そして、一見、中立的に見える、まじめな主張の中においても、「国会議事堂前に集まって、安保法に『戦争反対』なんて、当たり前のことを主張していても意味がない」、という議論がある。
意味があるか、ないかは、別として、この主張は、「リベラル」とされる人びとに向けて、発せられたものだ。が、ここには、ひとつの問題が、潜んでいる。
いま、国会議事堂前に集まって、「反対を叫ぶ」人々は、いかなる「思想」の持ち主であるのか、ということである。この筆者が言うように、「リベラル」と呼ばれる人びとのみが、参加しているのか、ということである。
もちろん、そういう「リベラルな思想」を持つ人びとも、参加はしているであろう。
それは、否定できない事実であろうと、思う。
◆ デモの参加者の多くは、「普通の市民」である
だが、今回のデモに参加している人々の大半は、「リベラルな思想」とは、およそ、「縁のない」人びとではないか、と思うのである。
それは、ひとつには、今日の職場における労働組合の組織率は、大幅に低下している。また、大学などの「自治組織」も、対外的には、もう「組織」としては、機能しなくなってきている、と思うからである。
さらに、既成政党も、「社会党」が解散したことで、「組織的」には、活動できるようなものではなくなった。いわゆる大量に「動員」が、出来る状態にない。
だから、今日の、安保法制案に反対するデモへの参加者は、「自然発生的」に増えていった、と捉えるべきものではないかと思う。
つまり、誰かに「命令」されたり、「お願い」されたりした結果、デモに参加しているのではなく、自発的に参加している人びとによって、行われている、と思う。
子供づれの主婦や、お年寄りなど、「普通の市井(市民)」の人びとが、自分の考えに基づいて、参加しているのだと思う。
彼らは、―言葉は悪いが―、「その辺」のオバサンや、オッチャンだ。
◆ 国民の意思を表明は、選挙の時においてしか、許されないのか
選挙において選んだ、自分たちの代表が行う政治について、「文句を言うべきではない」という主張については、どう考えればいいのであろうか。
これは、選挙制度の問題とも関係してくることでもあると思うが、そのことを別にしても、この主張にも、多くの問題点が含まれていると思う。
我々の意思を表明するのは、一度きりの選挙の時においてしか、許されないことなのであろうか。選挙以外の時に、意思の表明をすることは、間違いなのであろうか。
私は、そうは思わない。
日本国憲法は、前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」と述べる。
「信託によるもの」であっても、国民の代表者が権力を行使し、その結果が、国民に福利をもたらさない、と判断すれば、我々国民は、異議をとなえる権利がある。
そう、思うからである。
◆ 選挙で一票を投じてれば、国民としての役目が終わるわけではない
もし、そうすることが出来ないのなら、国会における審議を、わざわざ公開する必要がない。テレビで中継をする必要がない。
インターネット中継も、無意味だ。
そうなら、国民の代表者が、自分たちだけで、議論すれば良いことになる。
憲法というような大げさなものも、必要がない。
だが、国家権力は、「ほっておいたら」、何をするかわからない。
国家権力を考えるときは、「性悪説」の視点を持つべきなのである。
こういう考えがあるからこそ、憲法で、しばっておく必要がある。二重、三重に、ぐるぐる巻きにしておく必要がある。
それだけでも、まだ、足りない。普段に、厳しく監視することが必要である。
それこそ、「ウの目、タカの目」で、よく吟味することが、肝心なのである。
「公約を守っているか」、公約に背くような「政策」や「法律」になっていないか。常日頃から、しっかりと、監視することが、重要なことである。
それは、国民の一人一人に課された、義務なのである。
民主主義は、「そこにある」ものではなく、我々が、「作り上げて」いくものなのである。
その意味において、選挙で、一票を投じれば、それで、国民の役目が終了する訳ではない。
安保法制案は、国会での審議が進むごとに、その法案の中身が、「あやふや」で、政府の解釈によっては、「どうにでもなる」ものである、という事が、明らかになりつつある。
だから、多くの国民が、誰に言われたわけでもなのに、反対のデモを行っている。
それは、まさに、「止むに止まれぬ」魂の叫び声なのである。
(関連サイト案内)
・安保法案:制服姿で高校生も声を上げて…渋谷でデモ=毎日
(加筆して、再送しました。 )
(2015年8月18日)
一方で、国民の安保法案に反対するデモは、ますます、大きな広がりを見せている。
安保法案に反対する、このデモには、十分に、「意味」がある。これは、国民の「止むに止まれぬ」魂の叫び声なのである。
今や、デモの参加者は、「普通」の、オバサンや、オッチャンだけでなく、高校生にまで、広がっている。その彼らが、暑い太陽の下、連日デモを行っている。
そういう中にあって、このデモについて、「無意味である」という主張がなされている。
あるいは、国民の多くが選挙において、自民党や公明党を支持したのだから、デモをするのは、「おかしい」といった議論も、見られる。
はたして、これらの主張や議論は、「正しい」のであろうか。
◆ 今やデモの参加者は、「リベラル」思想の持ち主だけではない
安保法案についての議論が、盛んにネット上に掲載されている。
いろいろな議論がある中で、読むに堪えないものから、まじめな議論まで、主要な論点は、出尽くした感がある。
その中では、国会前のデモに関する記述がある。
そして、一見、中立的に見える、まじめな主張の中においても、「国会議事堂前に集まって、安保法に『戦争反対』なんて、当たり前のことを主張していても意味がない」、という議論がある。
意味があるか、ないかは、別として、この主張は、「リベラル」とされる人びとに向けて、発せられたものだ。が、ここには、ひとつの問題が、潜んでいる。
いま、国会議事堂前に集まって、「反対を叫ぶ」人々は、いかなる「思想」の持ち主であるのか、ということである。この筆者が言うように、「リベラル」と呼ばれる人びとのみが、参加しているのか、ということである。
もちろん、そういう「リベラルな思想」を持つ人びとも、参加はしているであろう。
それは、否定できない事実であろうと、思う。
◆ デモの参加者の多くは、「普通の市民」である
だが、今回のデモに参加している人々の大半は、「リベラルな思想」とは、およそ、「縁のない」人びとではないか、と思うのである。
それは、ひとつには、今日の職場における労働組合の組織率は、大幅に低下している。また、大学などの「自治組織」も、対外的には、もう「組織」としては、機能しなくなってきている、と思うからである。
さらに、既成政党も、「社会党」が解散したことで、「組織的」には、活動できるようなものではなくなった。いわゆる大量に「動員」が、出来る状態にない。
だから、今日の、安保法制案に反対するデモへの参加者は、「自然発生的」に増えていった、と捉えるべきものではないかと思う。
つまり、誰かに「命令」されたり、「お願い」されたりした結果、デモに参加しているのではなく、自発的に参加している人びとによって、行われている、と思う。
子供づれの主婦や、お年寄りなど、「普通の市井(市民)」の人びとが、自分の考えに基づいて、参加しているのだと思う。
彼らは、―言葉は悪いが―、「その辺」のオバサンや、オッチャンだ。
◆ 国民の意思を表明は、選挙の時においてしか、許されないのか
選挙において選んだ、自分たちの代表が行う政治について、「文句を言うべきではない」という主張については、どう考えればいいのであろうか。
これは、選挙制度の問題とも関係してくることでもあると思うが、そのことを別にしても、この主張にも、多くの問題点が含まれていると思う。
我々の意思を表明するのは、一度きりの選挙の時においてしか、許されないことなのであろうか。選挙以外の時に、意思の表明をすることは、間違いなのであろうか。
私は、そうは思わない。
日本国憲法は、前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」と述べる。
「信託によるもの」であっても、国民の代表者が権力を行使し、その結果が、国民に福利をもたらさない、と判断すれば、我々国民は、異議をとなえる権利がある。
そう、思うからである。
◆ 選挙で一票を投じてれば、国民としての役目が終わるわけではない
もし、そうすることが出来ないのなら、国会における審議を、わざわざ公開する必要がない。テレビで中継をする必要がない。
インターネット中継も、無意味だ。
そうなら、国民の代表者が、自分たちだけで、議論すれば良いことになる。
憲法というような大げさなものも、必要がない。
だが、国家権力は、「ほっておいたら」、何をするかわからない。
国家権力を考えるときは、「性悪説」の視点を持つべきなのである。
こういう考えがあるからこそ、憲法で、しばっておく必要がある。二重、三重に、ぐるぐる巻きにしておく必要がある。
それだけでも、まだ、足りない。普段に、厳しく監視することが必要である。
それこそ、「ウの目、タカの目」で、よく吟味することが、肝心なのである。
「公約を守っているか」、公約に背くような「政策」や「法律」になっていないか。常日頃から、しっかりと、監視することが、重要なことである。
それは、国民の一人一人に課された、義務なのである。
民主主義は、「そこにある」ものではなく、我々が、「作り上げて」いくものなのである。
その意味において、選挙で、一票を投じれば、それで、国民の役目が終了する訳ではない。
安保法制案は、国会での審議が進むごとに、その法案の中身が、「あやふや」で、政府の解釈によっては、「どうにでもなる」ものである、という事が、明らかになりつつある。
だから、多くの国民が、誰に言われたわけでもなのに、反対のデモを行っている。
それは、まさに、「止むに止まれぬ」魂の叫び声なのである。
(関連サイト案内)
・安保法案:制服姿で高校生も声を上げて…渋谷でデモ=毎日
(加筆して、再送しました。 )
(2015年8月18日)