<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
清廉潔白で篤実な彼の人柄を知っている友人の全部の者が、自分たちの身を危うくするのを知りながら、崋山を救い出そうと骨を折った。多くの学者や画家の友人である。
朱子学の大家で崋山の20年の師匠であった松崎香堂などは69歳の高齢だったが官辺に向かって運動し、崋山を助けようと尽力した。死罪になるものと一般に信じられていたのである。
人々の運動が認められて、藩に引き渡され、修身蟄居を命ぜられた。江戸の獄中生活で病みやつれた躰で故郷に帰り、監視づきで一生を小さな家の中に送ることになった。
江戸の友人たちは人間的に優れた人びとで、学問に対する情熱も活発な、気高い志の交わりだったとして、彼が帰って住む小さな田舎町は封建の闇の中に沈滞して、気高い精神など認められない環境であった。崋山はどこまでも国法の罪人として見られる。
毒を持っている危険な人物と公儀で設定したように、待遇された。息を蘇らせるような空気は通ってこない。幕府が改めて彼を告発することになるらしいと言うような悪意あるうわさをひろげるものが出て、崋山の気力心力は極限に来た。
この誠実な人物は、主人に迷惑をかけ、年老いた母を始め、家族を不幸に陥れた罪をわびた遺書を認めてから、清らかな自殺をした。
高野長英の方は、若い時から蘭学に飛び込んで、一度、開眼された眼を二度と閉じることが出来なくなっていた。精神は強靭である。
勇気を以て取り調べの座につき、学問の正しさを確信して絶望することがない。その、たくましさが、上に対して不遜なものに見え、憎しみを加えたことも確かであった。
崋山の場合と同じように外にいる友人たちや門人が運動してくれたので、明日を楽観的に観ていた。仙台藩が彼を領内に引き取らせてもらうように公儀に働きかけていたのも長英の新しい学識を惜しんだからである。
長英も、自分の学問が世の為、人の為になるものと信じて疑わない。この蛮社の事件を起こした発頭人の目付鳥居耀蔵が、町奉行となったと知った時、長英も始めて、これは助かって外に出ることはない、と見た。
牢にいれられてから5年目の6月晦日に小伝馬町の牢屋が火事を出したので、囚人たちは三日以内にもどるのを条件として、一時釈放された。
外に出てどこまでも学問を続けたい長英がその中にいた。
長英は三日を過ぎても帰らなかった。捕ㇱに追及される身になりながら、一度、故郷の水沢に帰って年老いた母に対面してから転々と地方に隠れやがて江戸に帰ってくると、妻子とともに隠れて住み、オランダの学術書などを翻訳して初一念を貫く生活をした。
また、身辺が危うくなって友人の江川太郎左衛門を頼って伊豆の韮山に行き、しばらく匿われて暮らした。江川太郎左衛門は、幕府の代官であった。
洋学や海防のことに昔から熱心だったので、上に知れる危険を知りながら、この天下の脱獄者をかばって養ってやったのである。長英も永居は友人の迷惑になると承知であった。
やがて、行く方をくらまして今度は四国に渡り、伊予の宇和島へ行った。幕府の威令は日本の全土に及んでいるものでもなく、地方の大名の領内に隠れれば、しばらく知れずにいる。支配が違うせいであった。
宇和島の藩主、伊達宗城は長英が来たと知ると、藩士に蘭学を教えさせるようにした。
江戸に知れて問題になるまで、長英と知りながら学問を伝授させ、また兵学書の翻訳に従事させた。これまでとは違う新しい時代が、やがて来るものとこの四国の奥地の大名が自覚していたのだ。(p、66-68)
(2016年9月30日)
清廉潔白で篤実な彼の人柄を知っている友人の全部の者が、自分たちの身を危うくするのを知りながら、崋山を救い出そうと骨を折った。多くの学者や画家の友人である。
朱子学の大家で崋山の20年の師匠であった松崎香堂などは69歳の高齢だったが官辺に向かって運動し、崋山を助けようと尽力した。死罪になるものと一般に信じられていたのである。
人々の運動が認められて、藩に引き渡され、修身蟄居を命ぜられた。江戸の獄中生活で病みやつれた躰で故郷に帰り、監視づきで一生を小さな家の中に送ることになった。
江戸の友人たちは人間的に優れた人びとで、学問に対する情熱も活発な、気高い志の交わりだったとして、彼が帰って住む小さな田舎町は封建の闇の中に沈滞して、気高い精神など認められない環境であった。崋山はどこまでも国法の罪人として見られる。
毒を持っている危険な人物と公儀で設定したように、待遇された。息を蘇らせるような空気は通ってこない。幕府が改めて彼を告発することになるらしいと言うような悪意あるうわさをひろげるものが出て、崋山の気力心力は極限に来た。
この誠実な人物は、主人に迷惑をかけ、年老いた母を始め、家族を不幸に陥れた罪をわびた遺書を認めてから、清らかな自殺をした。
高野長英の方は、若い時から蘭学に飛び込んで、一度、開眼された眼を二度と閉じることが出来なくなっていた。精神は強靭である。
勇気を以て取り調べの座につき、学問の正しさを確信して絶望することがない。その、たくましさが、上に対して不遜なものに見え、憎しみを加えたことも確かであった。
崋山の場合と同じように外にいる友人たちや門人が運動してくれたので、明日を楽観的に観ていた。仙台藩が彼を領内に引き取らせてもらうように公儀に働きかけていたのも長英の新しい学識を惜しんだからである。
長英も、自分の学問が世の為、人の為になるものと信じて疑わない。この蛮社の事件を起こした発頭人の目付鳥居耀蔵が、町奉行となったと知った時、長英も始めて、これは助かって外に出ることはない、と見た。
牢にいれられてから5年目の6月晦日に小伝馬町の牢屋が火事を出したので、囚人たちは三日以内にもどるのを条件として、一時釈放された。
外に出てどこまでも学問を続けたい長英がその中にいた。
長英は三日を過ぎても帰らなかった。捕ㇱに追及される身になりながら、一度、故郷の水沢に帰って年老いた母に対面してから転々と地方に隠れやがて江戸に帰ってくると、妻子とともに隠れて住み、オランダの学術書などを翻訳して初一念を貫く生活をした。
また、身辺が危うくなって友人の江川太郎左衛門を頼って伊豆の韮山に行き、しばらく匿われて暮らした。江川太郎左衛門は、幕府の代官であった。
洋学や海防のことに昔から熱心だったので、上に知れる危険を知りながら、この天下の脱獄者をかばって養ってやったのである。長英も永居は友人の迷惑になると承知であった。
やがて、行く方をくらまして今度は四国に渡り、伊予の宇和島へ行った。幕府の威令は日本の全土に及んでいるものでもなく、地方の大名の領内に隠れれば、しばらく知れずにいる。支配が違うせいであった。
宇和島の藩主、伊達宗城は長英が来たと知ると、藩士に蘭学を教えさせるようにした。
江戸に知れて問題になるまで、長英と知りながら学問を伝授させ、また兵学書の翻訳に従事させた。これまでとは違う新しい時代が、やがて来るものとこの四国の奥地の大名が自覚していたのだ。(p、66-68)
(2016年9月30日)
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