2016年9月29日木曜日

食糧難と、肉類を飽食する巣鴨刑務所の戦犯容疑者

<児島 襄『講和条約』第1巻>

昭和20年秋の日本国民は、飢えていた。
数少ない例外は、米軍刑務所に収容された戦争犯罪人容疑者であった。



その一人、元蔵相相賀興宣によればーー

「いや、びっくりしたね。すごい御馳走なんだな・・・ホットケーキは何枚でも食べろ、蜜もたっぷりかけろ、ハムエッグも出るし・・・毎日なんだな。優遇じゃないんだな。米軍の兵食を出しただけなんだが・・・。

”天皇陛下でも、いまではこんなものを食べておられないだろうな”と、まあ冗談だが、ボクら、そういって、たらふく肉や砂糖を食っていたよ」

一般がそうはいかないことは、むろんである。特に空襲をうけた大都市の食糧難はひどかった。

戦時につづいて配給制度が維持されたが、国外貿易は絶え、国内生産は減少し、流通機構も輸送手段も麻痺してしているとあっては、配給すべき糧食が不足する。

東京都の場合、10月に家族4人世帯が配給をうけたのは、「24キログラム、ウドン4把、代用粉4キログラム、大根75匁、魚20匁」である。

これが1か月分だが、4人家族では、どんなに切り詰めても「12、3日分」の量
でしかなかった。

残り「16、17日分」はイモ類、主に甘藷の買い出しで補給することになる。

4人家族なら、甘藷「8~13貫」あれば「3,4日」は食べつなげるし、東京で1貫目15円しても、千葉では3円で買えた。

食料の買い出しは、戦時中も行われたが、敗戦後に急激に増えた。



買い出し列車

警視庁経済警察部は、武蔵野、東上、京成、東武、国電など各線の1日の近郊買い出し乗客数が、9月20日1万8千余人、10月下旬には18万人を数え、さらに11月2,3日は「100万人」を記録した、と報告している。

当時の東京都の人口は約277万人。3分の1以上が買い出行脚に出かけたのである。

野菜、果物などを買うものもいたが、6割以上の買い出し市民が、主食用の甘藷を対象にした。

買いだす甘藷が一人当たり平均約5貫、千葉、埼玉、神奈川県からかつぎ出される甘藷の量は、1日約47万6千貫にのぼった、と、警視庁経済警察部は記録している。

食糧難、そして生活苦は、インフレによってより悪化された。

敗戦国がインフレに見舞われるのは、むしろ自然であろう。

戦時中の巨額の国債は「紙片」なみになり、戦後経済は、ひたすら「実質的裏付け」の無い銀行券の発行でまかなわねばならぬからである。

日本の場合も例外ではなく、敗戦時(8月15日)に約302億円であった日銀券発行残高は、昭和20年末には500億円を超えている。

当然に物価は上昇し、近県の甘藷1貫目はあっという間に8円にあがった。

売り手市場である農村では、あてにならなぬ紙幣より衣類などの物々交換を要求し、おかげで都民は無けなしの衣類で甘藷をかう「タケノコ生活」を余儀なくされた。(p。20-21)

 「タケノコ生活」=生活のために、手持ち家財道具衣料品などをその都度売って生活費まかなうような暮らしかたを指す表現。「タケノコ剥ぎ」と同様、筍の皮が11剥げるさまにたとえた表現

(2016年9月29日)


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