2016年9月28日水曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』シーボルトが来日し、日本に新しい学問をもたらす

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
シーボルト自身、日本研究の使命を帯びていたのだが、外科学、植物学、天文学、地理学などの広範囲にわたって教えてもよいと日本側に申し出た。



さいわいに、この時代の幕府の老中には学芸に理解のある政治家が加わっていた。シーボルトの門に、長崎の医師や通詞ばかりでなく、江戸を始め全国から有為の学徒が集まって教えを受けることになった。

若い高野長英は陸奥の水沢から、小関三英は出羽の国から、遥々と長崎まで出てきて、郊外の鳴滝の校舎に入った。シーボルトは江戸にも出て、最上徳内のように地理学者、天文学の高橋作左衛門などと会ってお互いの研究を深めた。

日本人が初めて見る各種の珍しい学問書も運んでくれていた。これだけ特別の配慮を許しながら、幕府の方針はどこまでも鎖国で、制限した条件でオランダに通商を許しているが、蘭学を通じて夷狄の文化が国内にひろがるのを、官僚は御法どうりに嫌っていたのである。

政府として一応海外のことを知っておくべきだとするが、それは秘事であって、民間にまでひろがるのを神経的に警戒していた。

自国漁民が漂流して外国へ渡ってから送還されて来ると、遭難を憐れむどころか、入牢させて外国の事情が外部に伝わらないように、時に牢死させたり、一代きびしく監視の下に置くのが建前であった。

その為に、日本に家族を置き恋しく帰りたくとも上を恐れて外国に居残ったままになる者さえでた。海の外には毒があるように妄想していたようである。蘭学の必要を認めていても、やはり危険だと見る当局者が、固い壁のように立ち塞がっていたわけである。

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
有名なシーボルト事件というのも、今日考えると実に何でもないことだが、異人恐怖症の幕府の役人から見ると、不埒で恐るべく国に害毒あることと見た。

文政11年(1828)帰国しようとしていたシーボルトの荷物を運んだ船が狂風を受けて港内に避難し、倒れて稲佐に民家の二階にもたれかかって、破損して出港を不能になった。

幕府側では、シーボルトに疑いの目を向けて見ていたので、江戸で交際のあった天文方の高橋作左衛門を調べて、シーボルトに日本地図や蝦夷の地図を贈った事実を知ると、すぐに長崎奉行に指令してシーボルトに地図を出すように命令させた。

シーボルトが拒絶すると、役人を出島の商館に向けてシーボルトが持っていた品々を強制的に押収した。地図や名所絵の類で、なかには、「無間ノ鐘由来記」とか「夜啼石敵討記」などの、くだらない読み本の類も入っている。

公安を害するものと認めたのだろう。処罰の範囲は、間に立った通詞の多勢に及び、23名が入牢せしめられた。関係者だと見れば、まことに皆そのとおりである。(p・60-61)

(2016年9月28日)

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