2016年9月23日金曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』カ中佐、薩摩の近代的設備、技術の高さに驚嘆

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>

翌日、斉彬はこの事件を聞いて大いに驚き、家中の不心得を戒めて自身迎えに出て、一行を藩邸に案内した。カッテンディーケの一行は、溶鉱炉を備え付けた鋳砲工場や製銃工場、硝子工場、電信機製作所
などを自由に見せて貰った。

初歩のものながら近代的な努力がここでは意欲を以て試みられているのである。それも教えるものがなく、自分たちの工夫だけで、試作をしている。列藩にくらべて、この薩摩の自覚は出色であった。

カッテンディーケは、前日、風邪気味だったので、他のものが揃って上陸したのに、船に居残っていた。海軍の生活に慣れない日本人船員がまた、港に入ると、すぐに船を捨てて上陸してしまうのである。

さすがに勝麟太郎ひとりが、カッテンディーケに従って、船に留まっていた。夕方になってから多少たいくつにもなり、すぐ近くの小さな外輪蒸気船が繋瑠してあるのを、両人で見に行った。

長さニ丈ばかりの汽船で、木で造って銅板が張ってあった。カッテンディーケが注目したのは、この船に据えつけてあった日本製の蒸気機関であった。安政のはじめごろに江戸で制作したのである。


雲行丸、日本で最初の蒸気船


「この機関はフェルダム教授の著書に載っている図面だけを頼りに造られたものである。シリンダーの長さからすれば、その機関は約12馬力のはずだが、コンデンサーに漏洩があったり、その他いろいろの欠点があって、僅かに、3馬力しか出ない。

その後になって、日本人はもっと良いものを造れることを知った。それだのに何故こんな不完全なものを拵えたのかといえば、これを試験的に造ったのは、はや既に大分(だいぶん)以前のことだったからである。

何としても一度も実際に蒸気機関を見たこともなく、ただ簡単な図面をたよりに、この種の機関を造った人の才能の非凡さに、驚かざるを得ない。我々オランダ人でも、蒸気機関の働きに十分の理解を持つまでになるのは、並大抵の苦労ではないではないか」

近代が生まれる準備が、ここでもなされている。しかし一般の民衆は異人を見ると古草蛙や、鰻などまで投げつける。この矛盾を日本は国中どこにも持っていた。

この最初の鹿児島訪問の場合も、島津斉彬は工場や砲台を見せて、カッテンディーケに腹蔵のない意見を求め、批評を詳しく書き留めさせた。謙虚な態度であった。(p432-433)


 「」で閉じてある箇所は、大佛次郎がカッテンディーケ中佐の日記からの引用した文章です。

(2016年9月23日)

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