2016年9月28日水曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』渡辺崋山や高野長英の受難(改題)

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>

高橋作左衛門は御書物奉行で天文台長である。入牢中に病死した。「お旗本の身分有るまじき行い、不届きによって、存命であれば死罪にする者である」(=超訳)と塩漬けになっていた死体に宣告した。


そして、長男と次男は遠島に処せられる。下僚や弟子たちもそれぞれ江戸から追放、シーボルトが江戸にいる間泊まった宿屋の主人までが不取り締まりというので50日間も両手に鎖をはめておかれた。

シーボルト自身は日本人の妻子がありながら、日本御構というので国外へ追放である。海外から訪れて学術の師宗と歓ばれても、始終、危険人物とみて監視していたのである。

だが、強権を以て幕府が防波堤を高く築いても、知識欲に燃えている人々があって、危険を冒しても漏水をすくって喉をうるおす。学問の同志が相寄り集って、互いに知識を交換した。

自分たちが学んできた学問と、オランダのそれとが建前がまったく違うのを発見した。彼らから見ると幕府の官学の朱子学も形式を整えるだけで内容がない。

道を説くのはよいとして、内容が力そのものである実践がないのに気がついた。


江戸の山の手にあった洋学関係の人々の集い、尚歯会の同志が同様に迫害を受けることになった。

渡辺崋山、高野長英、小関三英が、同学のよしみから、また偶然に住居が近いせいで、親しく往来した。

渡辺崋山
渡辺崋山は三河田原藩の家老で、麹町の三宅坂の藩邸に中に住み、高野長英は平河天神の近くに一戸を構えている町医、小関三英は岸和田藩医で赤坂見附近くにいたので、どちらからも、歩いて4,5分の距離である。

向学心が同じ方角、海の外に向かう。親しい仲となったのは自然である。

これに幕臣の中では明日のことを考えている川路聖謨、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門、農政学の佐藤信淵、古河藩の家老鷹見泉石といった人びとがあい寄って、新しい知識を交換し、教えたり教わったりした。

長英を除いては、人柄は皆、温和でしかも己を律するにきびしいと言ったような者ばかりであった。

崋山、渡辺は質実敦厚な人柄で、主家の疲弊した藩政を改革して復興させた功績さえあって全国的に注目されていた。藩の海防掛けを命ぜられてから、ひろく海外のことを勉強しようとする。

若い時に家が貧しく内職に扇子や提灯の画などをかいたことから初めた余技の画が日本美術史に残る作品を産み、特に肖像画が西洋風の写実的な性質を見せてさわやかな新風を生んだ。

偏見のない性格の上に、洋学から得た見識に依るものだ。精確に具体的に物を見ようと努めている。

高野長英
高野長英は、奥州水沢の医家の養子で、養父は杉田玄白の門人である。江戸に出て苦学して医学と洋学を勉強し、次いでシーボルトの鳴滝塾で自然科学の研究を続けた。

江戸に帰ると、麹町に医院をひらいて診療だけでなく講義をして学生に教え、からわら洋書の翻訳なども続け、聖賢の道をとくのでなく、有名な大飢饉があった時は蕎麦と馬鈴薯の作り方を本にして出版するような、実学的な立場で、医者だけでなく、何でもやる変わった人物として世間からみられていたろう。
(p、62-64)

(2016年9月28日)

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