2016年9月24日土曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』鹿児島市民は、着飾って静かに一行を迎えた

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
二か月後に、カッテンディーケらを乗せて咸臨丸は再び山川港に現れ、同じ日の夕方には鹿児島に入港した。島津斉彬が越前藩主松平春嶽に知らせた書状にも、「山川より城下まで十三里の海上を一時半(3時間)にて参り候」
と、船の速度に驚嘆している。


前の訪問のとき、取り締まりが悪く騒擾(そうじょう)を来したので、斉彬は市民に静粛にオランダ人の一行を歓迎するように布告し、藩主自身馬に乗って一行を案内した。

群衆は今度は祭礼の日のように着飾って静かに一行を迎えた。

つぎの日から三日の間、ほとんど止む間もなく強い雨が続いたが、最初の日から斉彬は藩の軍艦万年丸で、長崎目付木村図書、勝林太郎、オランダ将校を迎えた。

万年丸に案内させたのはこの船の構造上の欠陥を指摘させるためである。それから、磯御殿、集成館などを見せ、大小の砲の製造方法についていろいろと
質問をした。

「天候は悪かったが、我々はまたもや藩侯の工場や作業所を視察した。そうして初めて来たときに経験したようなうるささは、もはや大方なくなっていた。

今度は藩侯御自身、徒歩で、我々ヨーロッパ人一同を案内されたので、市の最も綺麗な方面を散歩したが、少しも市民から妨害を受けなかった。

港内には三本マストの約千トンの船が浮かんでいるのを見た。同船は4年前に薩摩において、古い造船学の書物に載っている図面を手本にして造られただけあって、ずいぶん醜いものであった。

胴体や造りは、大げさに言えば、ちょうど昔の東インド会社の船ににている。とりわけ装具は全く釣合がとれてなく、至るところに欠陥があった。それをまた(オランダ人)下士や水兵どもが指摘するのであった。

この船の名は万年丸と名付けられていた。藩侯は自らこの船で我々を出迎え、船内を残らずしらべて遠慮なく我々の意見を述べて貰いたいと頼んだので、十分その儒めに応じた。

大工の仕事は、大体良くできており、鉄肘ですこぶる堅牢に造られているように見受けた。しかし、保守が悪いので、船底の至るところに水が溜まっている。

造船費は莫大な額であったに相違ない。甲板には12門の砲が据えつけられてある。火薬庫は型のとうりに設備され、藩の工場で拵えられた新型の銅製火薬が備え付けられてある。

この船は荷物の運搬に使用され、最近江戸から帰航したばかりあった。」(p、434-436)

 底本は、文春文庫版を使っています。
なお、赤い文字は、読みやすさを考慮して、現代の表現に変えた箇所です。

(2016年9月24日)

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