<児島 襄『講和条約』第1巻>
総司令部も、東久邇宮内閣に不満であった。
表向きには、日本は平和国家になる、民主国家に代わる、という。
ポツダム宣言を忠実に履行する、ともいう。
が、その「宣言」が求める「民主主義的傾向の復活強化」、「言論、宗教おいび思想の自由」などについては、さっぱり具体的な施策がみられない。
東久邇宮内閣にしてみれば、ウソをつくつもりも嫌気宇をする下心もない。
ただ、国家の民主化といっても、70年間つづいた政治体制に慣れ、それ以外を知らぬ以上は、民主主義も「宣言」も主義は理解できても、具体的にどの施いぢをどのように変革すればよいのか、とっさにわからない。
旧体制の全面的改定となれば、その中に生きる人々の身のふり方も考えねばならぬ。
そこで、東久邇宮内閣としては、総司令部に日本側の政治事情も説明して相談しながら、「徐々かつ順次」に桂辺をすすめようとしたのである。
だが、民主主義といえば米国民主主義が最高だと信じ、その概念は普遍的だと考える米国側にしてみれば、日本が知らないとは思えない。
意にかなう改革が実行されないのは、あえてサボっているのではないか、と疑うのである。
とくに総司令部は、内相山崎巌が天皇・マッカーサー元帥の並立写真を掲載した新聞を発禁処分にしたことに、激怒した。
原論、思想の自由を求めるポツダム宣言に反抗するもので反抗するものではないか。
写真は、総司令部民間情報教育局検閲課長D/フーバー大佐の抗議で再掲載されたが、総司令部は、さらに10月4日、政府に覚え学を示達した。
「政治、信条並びに民権の自由に対する制限の撤廃」---と表記された覚書の内容は、広汎かつ厳格なものであった。
思想、宗教、言論、人権などにかんする差別あるいは制限の全廃を指示し、その中には「天皇、皇室、政府」にたいする自由討議を妨げる法令の廃止も、ふくいまれた。
さらに治安維持法その他の法令の廃止、政治犯の釈放、特高警察の廃止のほかに、内相、警視総監、警保局長ら約4千人の警察関係者の罷免も要求している。
総司令部は、これまでの日本側の施策を待つ「委任型関節統治」方式を、何をなすべきかを指示する「指揮型間接統治」にきりかえた感じである。
「覚書」は、だから、内務省と警察の解体命令にひとしい強制力をもつ。
東久慈宮内閣は、しかし、政府としては実行したくないと考えた。
「内閣は、これから多数の官史を見殺しにできないから、彼らと運命をともにする」
翌日の閣議で、首相はそう述べ、閣僚たちも同意して、東久邇宮内閣は総辞職した。(p・16-17)
(2016年9月27日)
総司令部も、東久邇宮内閣に不満であった。
表向きには、日本は平和国家になる、民主国家に代わる、という。
ポツダム宣言を忠実に履行する、ともいう。
が、その「宣言」が求める「民主主義的傾向の復活強化」、「言論、宗教おいび思想の自由」などについては、さっぱり具体的な施策がみられない。
東久邇宮内閣にしてみれば、ウソをつくつもりも嫌気宇をする下心もない。
ただ、国家の民主化といっても、70年間つづいた政治体制に慣れ、それ以外を知らぬ以上は、民主主義も「宣言」も主義は理解できても、具体的にどの施いぢをどのように変革すればよいのか、とっさにわからない。
旧体制の全面的改定となれば、その中に生きる人々の身のふり方も考えねばならぬ。
そこで、東久邇宮内閣としては、総司令部に日本側の政治事情も説明して相談しながら、「徐々かつ順次」に桂辺をすすめようとしたのである。
だが、民主主義といえば米国民主主義が最高だと信じ、その概念は普遍的だと考える米国側にしてみれば、日本が知らないとは思えない。
意にかなう改革が実行されないのは、あえてサボっているのではないか、と疑うのである。
とくに総司令部は、内相山崎巌が天皇・マッカーサー元帥の並立写真を掲載した新聞を発禁処分にしたことに、激怒した。
原論、思想の自由を求めるポツダム宣言に反抗するもので反抗するものではないか。
写真は、総司令部民間情報教育局検閲課長D/フーバー大佐の抗議で再掲載されたが、総司令部は、さらに10月4日、政府に覚え学を示達した。
「政治、信条並びに民権の自由に対する制限の撤廃」---と表記された覚書の内容は、広汎かつ厳格なものであった。
思想、宗教、言論、人権などにかんする差別あるいは制限の全廃を指示し、その中には「天皇、皇室、政府」にたいする自由討議を妨げる法令の廃止も、ふくいまれた。
さらに治安維持法その他の法令の廃止、政治犯の釈放、特高警察の廃止のほかに、内相、警視総監、警保局長ら約4千人の警察関係者の罷免も要求している。
総司令部は、これまでの日本側の施策を待つ「委任型関節統治」方式を、何をなすべきかを指示する「指揮型間接統治」にきりかえた感じである。
「覚書」は、だから、内務省と警察の解体命令にひとしい強制力をもつ。
東久慈宮内閣は、しかし、政府としては実行したくないと考えた。
「内閣は、これから多数の官史を見殺しにできないから、彼らと運命をともにする」
翌日の閣議で、首相はそう述べ、閣僚たちも同意して、東久邇宮内閣は総辞職した。(p・16-17)
(2016年9月27日)
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