2016年9月29日木曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』渡辺崋山と高野長英が投獄される(改題)

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
天保8年(1837)にアメリカ船モリソン号が日本人の漂流民を乗せて渡来すると知らせがあった時に、幕府は鎖国の御国法通り武力でこれを撃退するように決定した。



国際的な慣例に無知だったとしても、日本人の漂流民を送ってくるものに向かって、道理も考えずに危害だけを妄想したものである。

幕府は文政8年(1825)に、二念なき異国打払い令というのを出している。例外をおかず、徹底的に排撃するという意味のものである。

イギリスのフェートン号が長崎で乱暴をはたらいたのや、薩摩沖ノ島で狼藉をした事件に衝撃を受けてにわかに出した禁令で、海岸に近づく外国船をすべて破壊し、上陸する船員を全部逮捕するか殺害すべしと沿岸の官憲に命令した。

日本人の漂流民を送ってくる船にもその筆法を御国法どおりに容赦なく実施させようとするのだ。多少なり目があいた者が見たら、これは日本の為にお
怖るべき結果を招くものと信じられた。

崋山も長英も自分の身を考えずに、警告を出した。日本の国や社会のことが心配になった。

伊能忠敬

世界から故意に足を踏みはずしている鎖国的な頭脳は、反って異国の侵略を招き、国を危うくする。こうした社会的視野のひろい意見が出ることを官は嫌うのである。

崋山は「慎機論」を書き、長英は「夢物語」を草して、幕府の異人撃退方針を緩和させるように人に訴えた。人道上の目的で来る外国船に武力を用いるのは間違っているし、日本の為にならぬと信じたからである。

折悪しく目付に鳥居耀蔵がいた。官学の頭領、大学頭林述斎の子であって、本能的に洋学嫌いで、西洋人は野蛮人であり、道徳仁義を弁(わきま)えぬ夷狄だと狂信した剛情な人格である。

江川太郎左衛門と同行して浦賀から江戸湾の武防備をみまわったが、江川が崋山、長英などの「蛮社」に出入りしていること、巡見に際して測量方として推薦したのがやはり「蛮社」の同人だったので採用に反対したが、用いられて優秀な布告を出して成功だったので、一層、洋学派を憎んだ。

崋山、長英が出したのは御国禁に反抗する不穏の文書で、密偵にさぐらせ一味の逮捕を進言した。

崋山は天保10年(1839)5月14日、奉行所に呼び出され投獄された。長英も江戸から逃げる余地がまだあったのに、自分だけ逃れる気はないと言って迎えの来るのを待った。

小関三英は感じ易い男だったので、捕えられる前に運命を知って自殺した。

時代は暗い。窓をあけて外を見てはいけないのだ。渡辺崋山は長英のように学者ではなく、有能な地方の行政家であった。

藩の海防掛けを命ぜられたので、職務に熱心な男が、海の外のことを知ろうとして、精神は狭い世界から脱出しようとした。その報復に、牢屋に投じられた。(p。64-65)

(2016年9月29日)

0 件のコメント: