2016年10月7日金曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』明治維新の奇蹟、高島秋帆の登場(大砲、砲弾の独自製造)

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
アヘン戦争にまつわる中国とイギリスについての記述は、省略して、「黒船来航」に接近していきますーー

さて、ここに長崎生まれた、高島秋帆と言う人が登場してきます。


17歳で父親の役目を継ぐと、台場を預かり、またもち町寄りとしてオランダ屋敷に出入りする間に、西洋の技法を調べ、本で知った実物を、オランダ本国やジャバのバタビアから自費で購入して、新知識を得た。

ヨ-ロッパではナポレオン戦争の経験から、ボンベン(破裂弾)、グレナーデン(ザクロ弾)のほか、照明弾、焼夷弾などが急激に発達していたので、砲術書を取り寄せて見るだけでなく、大砲や砲弾の実物を取り寄せて見て、その製作までも試みたのである。

町人として普通許されることだったが、苗字帯刀を認められる町年寄で、出島の台場を預かり、彼自身も蘭学を知りオランダ人と交際のある立場が強みであった。

秋帆はアヘン戦争が大陸で起こる前から長崎港の台場の規模が小さく備砲が旧式で、万一の場合に役に立たぬことを知って、度々、改革の意見を奉行に進言したが採用されることなく、自分の一門だけの研究を熱心に進め、輸入した砲にならってモルチール砲(白砲)を鋳造し、各種の砲弾を作るのに成功した。

砲術のほかに秋帆は西洋流の兵式調練を、オランダの兵書で知って、古い日本の兵法とは、革命的に違うのに驚嘆を感じた。「西洋銃弾」と彼は呼んだ。

オランダのヘーグ(ハーグ?)文書館に秋帆が注文した蘭文書籍の注文の文書が残っている中に、「歩兵操典」「射撃用剣付銃に関する教範」がある。

「海上砲術書」などの署名が見えるし、現存する彼の旧蔵書に中に「主要火工品製造に関するハンドブック」などが発見せられる。


高島秋帆

不思議な情熱であった。理解力が優れていたし、作る技術を次第に進めて行った。

不審な点を出島のオランダ人に説明を求めたり、また彼自身が毛筆でオランダ文で認めてオランダに送った質疑応答書が、今日もヘーグ文書館に保存せられている。

新式の各種大砲、歩兵銃を購入するのには手続き上、注文書を出すので、それがヘーグやバダビヤ文書として残り、高島父子、特に秋帆のものが目立って数が多い。

孤独な先覚者の努力の痕跡となっている。

天保12年には秋帆の門弟は300余人に達して歩兵4小隊砲兵一隊に編成して春秋の二度にわたって、出上の原で演習をして注目された。 

これまでに日本で見られぬことだったからである。長崎に在番の諸藩の武士が門人となったばからでなく、秋帆の名声を聞いて、諸国から入門を希望する者が多い。

天保11年と言えば、アヘン戦争が起こって、シナが南支で敗戦を重ねているときである。長崎では、海の風が国外に起こった事件を日本のどこよりも早く知らせて来る。(P・121-124)


(2016年10月7日)

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