2016年10月6日木曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』英国が中国へ進出 原因は中国茶需要の急増

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
話は、一転して、中国(当時は、シナ)が舞台にーー
中国は当事、満州朝廷の清国だったが、
やはり自分の重量で安定した動揺のない大きな眠りの中にいて、外に向かって間を覚ましていなかった。


小さい島国の日本が、白人の勢力が入るのを拒絶して、国交も結ばず、オランダ人を長崎の出島に通商だけするのを許し、国の秩序と純潔を守ったのと同じく、清国でも異国と関係を断ち、商売に入ってきた者だけを、南支の広東の、城壁の外に場末の貧民街につながる汚れた狭い地域に、一塊にして留まるのを認めていた。

それもシナ側の貿易商人の建てた家を借りて住み、用務が終ると、海を渡って、ポルトガル人が居住を許されていたマカオに退き、次の貿易のシーズンを待つように命ぜられた。

日本の場合と同じで国交はない。地方官の両広総督だけが許して、季節風に乗って貿易に訪れる。

これが、清国になる前、明の時代からの慣行で、外洋紅毛諸国の蕃船は海関の検査を受け税をおさめ、13行あった中国側の貿易所に入り特許商人(行商)を通じてのみと取引が許される。

この世紀に入り、イギリス人の間に中国の茶の需要が急に増加した。茶の輸入が大きく儲かる商売となって、イギリスの東インド会社が広東に船を集めるようになった。



長崎の出島のオランダ人のように、行動を制限され、取引の窓口が13行を仲介とするように定まっているので、税金のほかに手数料や賄賂を取られるばかりで、イギリス人はひどく虐められた。

この不便な制限を取りはらって国交を結び、国と国とが通商をするように北京にある朝廷に大使をだして条約を結びたいとは、イギリス政府が前の世紀から希望した所であった。

気まぐれの地方の当局が相手では支障ばかり起こる。


1792年にイギリス政府はマカートニー伯を特使としてシナに派遣することになった。国交を開き通商をさかんにしようとうるのだから、一見、何でもない容易な交渉と思われそうだが、ここはヨーロッパではなく、アジアだから全く想像以上の困難があった。

アジアの大国の清国は、後に日本が開国を嫌ったのと同様に、下交渉をしても頑として受け付けなかった。

日本の鎖国はキリシタンが国内に入ってくるのを嫌ったのと、孤立しても自給自足が出来た小さなけうぃざいを破壊しまいとした防衛的性格のものだったが、中国のはそうではなかった。(P・80-81)

(2016年10月6日)

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