2016年10月5日水曜日

大佛次郎著『天皇の世紀』ロシア全権大使レザノフが通商を求めて長崎に来る

<大佛次郎『天皇の世紀』 1>
さて、フェートン号は去りましたが、この事件の責をとり、松平図書守は、切腹をして果てますーー
フェートン号より4年前、文化元年9月にこの港にロシアの軍艦がはいってきたことが

あった。ロシア人を見るのも日本人の経験になかったことである。

これはロシア政府がレザノフを全権大使として日本に派遣したもので、通商を求めがてら、日本の漂流民を届けてきたものである。

長崎の奉行は江戸へ急使を出して処置を問い合わせるとともに、国法に依って露艦の武器弾薬の引き渡しを求め、幕府の許可があるまで上陸を許さない強硬な方針に出た。

江戸からの返事がなかなか来ないので、使節に病気の治療をさせるという名目で上陸を許したが、家の周囲を竹矢来でかこみ、外と交通させず、丁寧な待遇だが監禁と同じであった。

半年も待って、年が明けてから幕府から返事があったと言うことで奉行所に案内された。通る道の両側とも幕を張り廻して商家を目隠ししてある。

市民にも見てはならぬと命令がでていたので、人影もない。外出は許されたが、実に町に何も見ないで終わった。

その上に、奉行所で幕府がレザノフに与えた回答は、全面的の拒絶であった。
通行は不可能である。

幕府は日本人が外国と通商するのを許さず、外国人が我が国内に入るのを許さない。これが国の方針なのである。

レザノフ

半年間も待たされて、この返事である。レザノフは已むを得ず、長崎から出ていったが、すくなくとも自分が受けた極端な待遇に復讐したくなったらしい。

北に向かってカムチャッカまで帰ると、そこにいた武装商船二隻の海軍士官に日本の北辺の領土を襲撃するように命じた。

その為に、文化3年9月カラフトのクシュコタンにあった日本の番所が焼かれ、5人が拉致された。

次いで翌年4月千島のエトロフ等に来てナイホの番所を焼き、当時の中心地だったシャナの沖合に現れて砲撃を加えて上陸を開始した。

日本側では函館奉行の役人や津軽・南部両藩の兵そのほかあわせて300名ばかりが来たいたが、火砲をあびて、うろたえるばかりで応戦するどころでない。

奥地へ退却すると、ロシア人は会所などの中を徹底的に略奪してから火を放って船に帰って行った。

同じような事件が、各所に起こったが、およそ北辺の、人間もすくなく連絡の乏しい場所で不意に起こって、半年は流氷や雪で鎖されている荒海を越えて知らせて来るのだから、江戸で対策を考える時は、もう年も更わっているのである。

江戸に伝わる前にかえって長崎にいるオランダ人や唐人の方が早く聞いている場合さえある。ロシア人はシベリア大陸を渡って太平洋岸に進出してきていた。(P、77-78)

N・レザノフが、「長崎」の仇を、「カラフト・エトロフ」で討つ、といった顛末になりました。折角、親切に日本人の漂流民を送り届けたのに、「あまりに仕打ち」と、腹が立ったのでしょう。

無理もないことです。

(2016年10月5日)

0 件のコメント: