仏教は、輪廻転生を説く。それから逃れるために厳しい修行をする。その結果、解脱を得る。その解脱を得たものは、輪廻転生が止み、永遠の眠りにつく。
『苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人びと、--
かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることが出来ない。かれらは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみのを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人びと、--
かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)消滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。』
(「スッタニパータ」 二種類の観察)
★
この考え方は、キリスト教とは、対蹠的(正反対)である。
キリスト教は、神による最後の審判を受けた結果が、合格なら「永遠の生」を受けられると説く。永遠に生き続けられる、と教える。
仏教の教えと、キリスと教が説く教えのどちらが、人間にとって、良いことなのか、私は知らない。
「永遠の生」を受けることが、そんなに嬉しいことであるとは思えない。
反対に、輪廻が止み、「永遠の眠り」につくことが、幸せとも思えない。
生存への執着を絶ち切り、心の静まった修業僧は、輪廻を超える。
自己の身体を「無いもの」と考える。そうすることが安楽である、と言う。
そして、二度と生を受けることがない、とゴータマ・ブッダは説く。
山中鹿之助は、「我に七難八苦を与えよ」と自らに願った、と言われる。私には、とうてい、そんな覚悟はできない。
この世が、「七難八苦に満ちたもの」であるなら、再び、生を受けたいとは思わない。そんな気にもなる。
(2016年7月9日)
『苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人びと、--
かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることが出来ない。かれらは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみのを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人びと、--
かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)消滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。』
(「スッタニパータ」 二種類の観察)
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この考え方は、キリスト教とは、対蹠的(正反対)である。
キリスト教は、神による最後の審判を受けた結果が、合格なら「永遠の生」を受けられると説く。永遠に生き続けられる、と教える。
仏教の教えと、キリスと教が説く教えのどちらが、人間にとって、良いことなのか、私は知らない。
「永遠の生」を受けることが、そんなに嬉しいことであるとは思えない。
反対に、輪廻が止み、「永遠の眠り」につくことが、幸せとも思えない。
生存への執着を絶ち切り、心の静まった修業僧は、輪廻を超える。
自己の身体を「無いもの」と考える。そうすることが安楽である、と言う。
そして、二度と生を受けることがない、とゴータマ・ブッダは説く。
山中鹿之助は、「我に七難八苦を与えよ」と自らに願った、と言われる。私には、とうてい、そんな覚悟はできない。
この世が、「七難八苦に満ちたもの」であるなら、再び、生を受けたいとは思わない。そんな気にもなる。
(2016年7月9日)
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