『ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
人びとは「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住でないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
ひとが「これはわがものである」と考える物、それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してはならない。
夢の中で会った人でも、目が覚めたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。
「何の誰それ」という名でよばれ、かっては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、名が残って伝えられるだけである。
わがものとして執着したものを貪り求める人びとは、憂いと悲しみと慳(ものおしみ)とを捨てることがない。それ故諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏を見たのである。』(スッタニパータ 804~809)
★
この世の中は、諸行無常である。すべては移ろい、変化し、一か所にとどまることがない。
鴨長明が『方丈記』で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と詠んだ通りである。
また、織田信長が謡い舞ったように、_____この世に生を受けたものは、やがては死を迎える運命にある。
そうであるのに、我々は、物にこだわり、物をよりたくさん持つことに、執着する。
また、いつまでも、今の生活が続くことを願う。到底、かなうはずがないことなのに。
物を持てば、今度はそれがなくなりはしないかと、心配することになる。
また、もっと良いもの、人が持たないものが欲しくなる。限界がない。
「もうこれでいい」という満足感がない。
★
ところが、聖者は、なにものにとらわれることなく、愛することもなく、憎むこともしない。悲しみも物欲も、彼を汚すことがない。
かれは、どんなことにも、影響を受けることがない。
だから、聖者は心の平安を得ることができる、と言うのである。
(2016年7月9日)
人びとは「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住でないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
ひとが「これはわがものである」と考える物、それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してはならない。
夢の中で会った人でも、目が覚めたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。
「何の誰それ」という名でよばれ、かっては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、名が残って伝えられるだけである。
わがものとして執着したものを貪り求める人びとは、憂いと悲しみと慳(ものおしみ)とを捨てることがない。それ故諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏を見たのである。』(スッタニパータ 804~809)
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この世の中は、諸行無常である。すべては移ろい、変化し、一か所にとどまることがない。
鴨長明が『方丈記』で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と詠んだ通りである。
また、織田信長が謡い舞ったように、_____この世に生を受けたものは、やがては死を迎える運命にある。
そうであるのに、我々は、物にこだわり、物をよりたくさん持つことに、執着する。
また、いつまでも、今の生活が続くことを願う。到底、かなうはずがないことなのに。
物を持てば、今度はそれがなくなりはしないかと、心配することになる。
また、もっと良いもの、人が持たないものが欲しくなる。限界がない。
「もうこれでいい」という満足感がない。
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ところが、聖者は、なにものにとらわれることなく、愛することもなく、憎むこともしない。悲しみも物欲も、彼を汚すことがない。
かれは、どんなことにも、影響を受けることがない。
だから、聖者は心の平安を得ることができる、と言うのである。
(2016年7月9日)
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