2013年7月2日火曜日

参議院選挙について考える(4) 憲法は誰を縛るものか

 憲法改正についての続き。

憲法には改正条項があり、その改正を予定している。
そうである以上、改正が議論され、国会で発議されることは、特別異常な事ではない。


むしろ今まで、勝手な解釈をして、憲法の精神をないがしろにしてきたことこそ問題である。
それは自衛隊のことに代表される。

憲法9条の精神からすれば、自衛隊は違憲であろう。
まして、たとえ国際平和のためであっても、海外に出ていくの明確な憲法違反である。

PKOは直ちに中止する必要がある。
海外の戦争が起こっている場所に自衛隊を派遣するのは、
自衛隊にとっても大変な事であろう。
交戦権を持たない自衛隊(いわば正式に軍隊でない集団)が、捕虜となれるのか。

また憲法の番人であるはずの最高裁判所が、高度に政治的な事柄であるという理由から、
司法的な判断をさけることがある。
司法権の独立性を、最高裁自らが、破ることが行われてきた。

これらのことについてはもちろん、是正されなければならない。

先日の都議会選は自民党の圧勝におわった。
しかし、地方選挙では、必ずしもそうでもなさそうである。

だがいずれにしても、今度の選挙で自民党・公明党で過半数をしめるようなことになると、
憲法の改正が行われることになろう。
そこで自民党が出している憲法改正案について考えてみたい。

まず問題なのは、憲法に対する見方のことである。
憲法とは何かということ。

憲法に違反することが出来るのはだれか、という問題である。
この事が理解できていないと、正しい判断が出来ない。

憲法違反であるということは誰に向かって言う言葉なのか。
この事の理解である。

憲法違反であるという言葉は、国民に対して言われる言葉ではない。
国民は憲法に違反することは出来ないのである。

憲法は、国家を縛るものである。
この事が理解出来ていれば、この改正案は、根本で間違っているのが分る。

我々国民の大多数は、この事の理解が十分できているか。
かって、教えられてきたことがあるか。
あるいは学んできたことがあるか。

そもそも大日本帝国憲法からして、「天皇から臣民に詮布」されたものであった。
与えられたものであった。
もちろん、多くの憲法草案がだされてはいた。

そのなかでも、植木枝盛のものは、愁眉である。
しかし、自由民権運動の衰退とともに葬り去られてしまった。

与えられたものという意味では、現在の日本国憲法も同じである。
敗戦により、GHQのマッカサーから、強制的に「改正」させられた。
だから、国民自らが制定したものではない。

だから我々には、憲法が国を縛るものであるということの理解は、相当に困難を伴う。
しかしこの事をしっかりと頭に置いておくことが、何より重要である。

この事が理解できていれば、自民党案の違法性がわかる。

国民に愛国心や道徳観や家族愛を求めるのは間違いである。
それは国民の個人的な事である。
国民の内面に関することである。

それは憲法に書き込むことではない。

また国民の権利よりが公共の利益が優先されていることも誤りである。

国民の自由や権利が守られていてこそ、憲法は意味を持つ。
国民の権利や自由が守られていのなら、その社会は民主国家ではない。
そのような社会には、憲法は不要である。

だから何よりもまず第一に、国民の権利や自由を確保することが、憲法に明記される必要がある。
つまり仮に、国民の自由や権利が十分に尊重されている社会のなら、憲法はなくてもよいのである。

今度で3度目である。
今回の改正は、ぜひとも日本国民の総意で行いたいものだ。

国民自らが苦労して手に入れてこそ、その重要性や貴重さを知ることが出来よう。
大切にすることが出来よう。