今回の選挙について考えるの最後の章。
参議院そのものについて考えてみる。
一般に言われる、参議院は衆議院のカーボンコピーにすぎないということについてである。
参議院の存在意義は何か。
やはり、それを考えるキーポイントは、憲法のもつ性格である。
憲法が国を縛るものであるという、このことである。
確かに現在の参議院は、無党派の議員はほとんどない。
そして政党は、議決の際、所属議員に党議拘束をかける。
だから衆議院と同じ結果が予想される。
しかし現在のように、「ねじれ」といわれる状況があれば、国を縛るという観点からすれば、
良いことである。
時の政権にとっては、やっかいなことであろうが。
必要な政策がとれないということはあろう。
しかし本当に国民のために必要な事であれば、個々の問題については、
合意点は見つけることが出来よう。
だが、国の根幹にかかわるようなことについては、慎重であるべきだ。
参議院が、別に「良識の府」である必要はないと思う。
もちろんそうであれば、それはそれでよいことではある。
しかし「良識」の定義はあいまいである。
がとにかく、衆議院の暴走を止めるということの役割は重要である。
タレント議員、スポーツ議員、アナウンサー議員がいてもよい。
以前にはこのような議員のいることには反対であった。
しかし、ソコイラヘンの平凡な国民が議員になることは、すこしもおかしい事ではない。
このように思うようになった。
憲法の事が分るようになったからである。
ただ一点、憲法が何を予定したものであるかを、理解している人であればよい。
こう思うようになった。
政治的・法律的に、特別な能力をもった人でなくても良い。
むしろそのような人に限定することこそ、危険である。
我々の代表なのである。
我々はほとんどの人が凡人だ。
そうでないという人もあろうが。
しかしただ凡人では困るので、官僚がいる。
問題は、凡人である政治家が、官僚をコントロールできないことにある。
あるいはそのような仕組みになっていないことにある。
だから、問題は官僚を使いこなせるようになれるかどうかである。
その能力を身に着け、磨くことが、政治家に求められることである。
こう考えるようになった。
また、官僚の暴走をおさえて、官僚が本来の役目を担う仕組みにすればよい。
もちろんそれは簡単なことではなかろう。
現在の官僚を相手にできる組織がないからである。
中国の官僚制度が長続きしたのは、宦官の存在であった。
この二者がお互いにの牽制し合ったので、うまくいった。
この「宦官」に当たるものを作り出せばよいのではないか。
どちらにしても、参議院が必要であることは確かである。
特に今日のような状況では、そうである。
憲法の改正が、国会議員の過半数できまる。
つまり国民の25パーセントで良い、となると大変だ。
コロコロと憲法が変わることは問題がある。
むしろ、憲法の持つ性格からいえば、簡単に変えられることはよくない。
政権の変化や、時どきの社会現象の変化で簡単に変えられるようなことは、
避ける必要がある。
憲法の根本的な問題を材料にして、参議院の存在意義について考えてみた。
参議院そのものについて考えてみる。
一般に言われる、参議院は衆議院のカーボンコピーにすぎないということについてである。
参議院の存在意義は何か。
やはり、それを考えるキーポイントは、憲法のもつ性格である。
憲法が国を縛るものであるという、このことである。
確かに現在の参議院は、無党派の議員はほとんどない。
そして政党は、議決の際、所属議員に党議拘束をかける。
だから衆議院と同じ結果が予想される。
しかし現在のように、「ねじれ」といわれる状況があれば、国を縛るという観点からすれば、
良いことである。
時の政権にとっては、やっかいなことであろうが。
必要な政策がとれないということはあろう。
しかし本当に国民のために必要な事であれば、個々の問題については、
合意点は見つけることが出来よう。
だが、国の根幹にかかわるようなことについては、慎重であるべきだ。
参議院が、別に「良識の府」である必要はないと思う。
もちろんそうであれば、それはそれでよいことではある。
しかし「良識」の定義はあいまいである。
がとにかく、衆議院の暴走を止めるということの役割は重要である。
タレント議員、スポーツ議員、アナウンサー議員がいてもよい。
以前にはこのような議員のいることには反対であった。
しかし、ソコイラヘンの平凡な国民が議員になることは、すこしもおかしい事ではない。
このように思うようになった。
憲法の事が分るようになったからである。
ただ一点、憲法が何を予定したものであるかを、理解している人であればよい。
こう思うようになった。
政治的・法律的に、特別な能力をもった人でなくても良い。
むしろそのような人に限定することこそ、危険である。
我々の代表なのである。
我々はほとんどの人が凡人だ。
そうでないという人もあろうが。
しかしただ凡人では困るので、官僚がいる。
問題は、凡人である政治家が、官僚をコントロールできないことにある。
あるいはそのような仕組みになっていないことにある。
だから、問題は官僚を使いこなせるようになれるかどうかである。
その能力を身に着け、磨くことが、政治家に求められることである。
こう考えるようになった。
また、官僚の暴走をおさえて、官僚が本来の役目を担う仕組みにすればよい。
もちろんそれは簡単なことではなかろう。
現在の官僚を相手にできる組織がないからである。
中国の官僚制度が長続きしたのは、宦官の存在であった。
この二者がお互いにの牽制し合ったので、うまくいった。
この「宦官」に当たるものを作り出せばよいのではないか。
どちらにしても、参議院が必要であることは確かである。
特に今日のような状況では、そうである。
憲法の改正が、国会議員の過半数できまる。
つまり国民の25パーセントで良い、となると大変だ。
コロコロと憲法が変わることは問題がある。
むしろ、憲法の持つ性格からいえば、簡単に変えられることはよくない。
政権の変化や、時どきの社会現象の変化で簡単に変えられるようなことは、
避ける必要がある。
憲法の根本的な問題を材料にして、参議院の存在意義について考えてみた。