2013年7月28日日曜日

電力会社とェネルギ ■■■東電の「体質」を考える。(その1)

福島の事故で一番の責任は、東電にあることは、議論の余地がないことである。
そこで改めて東電という会社についてみることで、今後の日本のエネルギーのことをどのように解決すればよいかを、考えてみたい。

明治時代には、電力会社は、30余りあった。
資本制の社会としては、当然な事である。
それが戦争とともに、戦時経済に移行することで、日本発電のもと、9配電会社に統合された。

それに沖縄電力を加えることで、現在の10電力会社のかたちになった。
そしてこれらの会社は見事に地域が区分けされ、棲み分けがなされている。
消費者は、電力を買う先を自由に選べないのである。

これは資本制の社会としては、不思議な現象である。
普通消費者が物を買うときには、いろいろと比較して、一番良いと思えるものを、購入する。
住宅、車、洋服などすべてそうである。

選択肢が多ければ多いほど、消費者に有利になる。これは自明の理だ。

光熱水の中では、電力だけが、特殊である。
ガスは、このところオール電化住宅があり、必ずしもガスを買わなくてもよい。
また、一人暮らしなら、ガスボンベを買って、まにあわせる事も出来る。
私の一人暮らしの時は、そうであった。

食事は外食で済ます事も出来たし、スーパーで買って、家で食べる事も出来た。
風呂は銭湯で済ませた。

水道も、ペットボトルで買い、雨水をためて使えば、必ずしも、水道事業に頼らずとも暮らせる。
もちろんそれは、不自由であり、大変な事ではあるのだが。
田舎であれば、今でも川の水を利用すれば、大抵のことは、間に合うだろう。
自宅に井戸でもあれば、水を買う必要はない。

ところが、電力においてはそうなっていない。
(自家発電という手もあろうが、現代のように、家電製品に取り囲まれた中では、
不可能ではなくても、難しかろうと思える。)
このように電力会社を自由に選んで電力を買えない所に、問題の根本の原因がある。
(これはまた、現在の日本が、戦時統制経済のもとにあると、揶揄される元にもなっている。)

電力が独占事業であり、しかも、まったく決められた会社からしか、電力を買えないから、
電力会社の横暴が許される。
自家発電所を持つ鉄鋼会社などでない限りは、電力会社に逆らうことが出来ない。

電力料金も、会社側の言うままである。
値上げされたから、もう買わないという訳にはいかない。売り手側のいうままにしか出来ない。
だから東電の記者会見で、記者側が、わざわざ「教えて下さい」「ありがとうございました」などと、礼を言わなければならない。
例えは悪いかもしれないが、強盗に入られた家の人が、強盗に礼をいっているようなものである。

事故を起こして国民に大きな負担と迷惑をかけ、命まで奪っているのは、東電である。
そのような国民を代表して質問をする記者が、なぜ、あんなに東電に対して、低姿勢にならなければいけないのだろう。
外の事件の記者会見なら、怒号が飛び交ってもおかしくないほどのことであるのに。

さらに、電力会社は、何もかも、消費者に負担を強いる。
(空き家になっている社宅に維持費まで、コストに算入していたと報道された。)

このように考えると、電力を自由化するしか、国民が救われる道はない。
電力を自由化して、電力会社の自由な競争を促すしか、そのサービスが向上させ、電力会社の横暴を防ぐ道はない。