2013年7月25日木曜日

日本国憲法は、すでに死んでいる

民党が参議員選挙で勝利して、早速に、憲法草案の「対話集会」の検討に入った、と報じられた。
しかし、自民党案は、発表されたままのものであれば、「対話集会」をして、「時間をかけて」も、
国民の理解は進まないし、得られない。


憲法にたいする自民党の基本的なスタンスが変わらない限り、国民との「対話」は、どこまで行ってもすれ違いに終わるであろう。

「憲法が国民を縛るものではなく、国家を縛るもの」という基本的な理解を欠いた憲法草案では、
国民は納得しない。
憲法に「国の姿」-ー言い換えれば、国の国民への要求ーーを書き込むなどということは、近代の法理論からすれば、正しくない。

憲法は国民の一人一人の生命と財産、人権などを守るために、国家権力の横暴や暴走を食い止めるために、制定したものである。

「家族愛」、「郷戸愛」「国への愛」などというようなことは、道徳・倫理や宗教などの問題である。国民の心の問題である。 「心の問題」には国家が踏み込まないと言うのが、近代社会の常識である。
国民が何を考え、どんな宗教を信じ、どういう生き方をしようと、国が介入するべき事柄ではない。

確かに今の日本では、家族の情は薄れ、家族間の殺人も珍しいことではなくなった。
若い母親や父親が、まだ立って歩けない我が子に手をかける、ということもよく報道される。

自分さえよければ、他人のことなどどうでもよいという、若者や大人が多くなっているようにも思える。
道路にはゴミが散乱し、コンビニ前の広場でさえ、食べた残りやカップ、紙袋などがそのままかたずけられずに、置いてある。目の前に、ゴミ箱が置いてあっても、それに入れようとはしない。

携帯電話の普及で、ますます個人主義の悪い面が、表に出てきてる。
「他人の迷惑を考える」と言うことが出来ない国民も、少なからずいることは事実だろう。

このような現状を、そのままにしておけないと考えるのは無理もない。
しかしそれは、憲法に書き込んで、国民に強制するようなことではない。
それぞれの家族の問題であり、国民一人一人の心がけの問題である。

学校教育によって、変えようと言う向きもあるかもしれない。
しかし学校教育といえども、「子供の内面のこと」に関して、強制することは、すべきことではない。
それは学ぶ側の問題であって、教師が上から押し付けることではない。

室直樹は、田中角栄の裁判をもって、日本国憲法は「死んでいる」、と述べた。
田中の裁判は、「反対尋問を許さない」暗黒裁判であり、最高裁自らが、憲法に違反した、とその著書で述べた。

憲法を守るべき裁判所が、憲法を守らなかった。
元検察の、掘田 力氏は、「超国家的措置」として、コーチャンの証言を採用したと、述べられている。

一国の総理大臣を、最高裁や検察が憲法に違反しているのを承知で、「超国家的措置」を理由に、逮捕し裁判にかける。

そして国会は、何もしない。田中角栄を、見殺しにした。
この時点で、国会も死んだ。裁判所や検察に対して、何も言わなかった。
最高機関であることを自らが放棄した。

憲法を守ろうとせず、「刑事訴訟法」も無視した。「刑事訴訟法」の手続きを守ろうとはしなかった。
結果、三権が、憲法に違反したのである。

これを「憲法の死」と言わず何といえばよい。
すでに死んでいるものを、「改正」することは出来ない、というのが小室直樹の論だ。

理屈からいえばそうなるであろう。

衛隊を、なんのかんのと理由をつけて海外の戦場に出す。
今度は、憲法の解釈を変えて、「集団的自衛権」があることにするのだという。
なし崩し的にその解釈を変更し、憲法が予定している姿とは似ても似つかないものにする。

裁判所は、国選の一票の格差を違憲であるとしながら、「選挙は無効ではない」との、判決を出した。
この事に限らず、最高裁は、高度に政治的な事柄は、判断を避けてきた。
司法権の独立は、見事に、破られてきた。

法を作ることが仕事のはずの国会議員が、官僚まかせて、自らは法を作らない。
憲法は、天皇、国務大臣、裁判官やその他の公務員などに、日本国憲法を尊重し擁護する義務を課しているのに。

当然だすべき裁判を、裁判所が、いろいろな理由をつけて、出さない。
法を作ることが使命の国会議員が、法を作らない。
政府が、都合で、勝手に憲法の条文を替えるにも等しいようなことをする。

今の日本は、憲法はあっても、存在しないのと同じである。

小室直樹の指摘は、今でも正しい。合掌。

参考書
    「日本人のための憲法原論」   小室直樹   集英社インターナショナル刊