障子、襖、はものとより、提灯、行灯、などにとって、なくてはならないもの。それが和紙である。もしも、和紙というものがなければ、これらのものは、それほどまでには普及することがなかった、であろう。
現代の日本では、日本製紙、王子製紙、三菱製紙と言った大企業によって、機械で商業生産される日常的な用途の紙が圧倒的に優勢であり、木のパルプも洞窟のようなコンテナ船で海外から大量に輸入されるため、手漉き紙をつくる工房は300足らずに減少し、こうした工房が生き残っていく見通しは、好意的に見ても不確かとしか言えない状況だ。
≪紙漉きの技術は2000年前に中国で発明されたのち、ふたつの方角へ伝わった。西はシルクロードを通じて中央アジアからヨーロッパへ、そして、東は朝鮮と日本へ伝わった。西でも東でも、この技術を最初にもたらしたのは紙に経典を書いて広めた仏教僧である。中国以外の国で最初に紙を作り始めたのは朝鮮だと考えられており、その時期は、中国が此の隣国を侵略していた400年の間(-108年~313年)だったといわれている。
朝鮮人は、中国から宗教の教えを取り入れ、芸術や文化も吸収し、さらには中国の漢字をも取り入自国の書法体系を5世紀に確立した。6世紀になると、中国に留学して学んだ朝鮮の僧や学者が、筆、墨、質のよい紙など、中国で使われているさまざまな品物を持ち帰った。
その後、朝鮮で作られる紙は非情に高い評判を得るようになり、生産されるものの大部分が毎年、貢物として中国の皇帝に送られるようになった。
610年、朝鮮のふたりの仏教僧が日本海沿岸の地(現在の福井県)で、日本人に紙漉きの基礎を教えたことが知られている。それから、1世紀と経たないうちに、紙はこの国の至るところでつくられるようになった。
その頃、紙の主な用途は貴族や武士のぜいたく品だったが、僧が仏教の教えを書いて広めるためにも使われた。紙が世に広まっていた764年には、当時日本の女帝であった称徳天皇が国家安泰を祈念するため、紙をたくさん使わなければできないような事業を敢行した。・・(天皇は)経文を100万枚作成させ、100万基の木製の小さな三重塔に一枚ずつ納めて、国内の10の寺に奉納した・・。≫
女帝が奉納を命じた厖大な経文の数は、同じ祈りを何度も繰り返す仏教徒の修行に通じるものであり、この宗教が日本人の生活にどれほど大きな影響をおよぼしていたかを反映している、とバスベインズは言う。
「『陀羅尼』から力を得たいと願う者は、これを77回書き写し塔に奉納しなかればならない」というブッダの言葉もある、らしい。
これらの経文は、長さ約46㎝、幅約5cm、の和紙に印刷。その際、文字は木版印刷されたか、銅版印刷されたかのいずれかであろうと考えられている。その両者であると考える学者もある、ようだ。
経文は、一行5文字。約30行で印刷され、巻物仕立てになっている。紙は二重になっており、羊毛のような肌合いのものと、表面がなめらかで薄くてしっかりとした紙とで作られいる。
≪6年で完成した100万巻の『陀羅尼』は、作製年代が明確な、現存する最古の印刷物として認められている。サー・オーレル・スタインが中国敦煌から持ち帰った『金剛般若経』より、さらに99年も古い。
今日まで残っていることが知られているのは数百巻であり、そのほとんどは状態が劣化していが、まだ無事に木製の小塔に入っているものも多い。』
(2019年9月2日)
水に強く、引っ張っても簡単には破れない。それでいて、光を程よく通す。(障子などに)張るのも簡単に出来る。
もちろん、和紙はそれだけの用途に限定されるわけではない。が、この和紙は、もともとは、日本にあったわけではない。
この和紙について、この本の著者のバスベインズは、第2章の始めに、以下のように記述する(引用した分は、読みやすくするために適当な長さで、投稿者が区切っている。但し、段落は元文通り)。
≪日本で明治維新が起こった時代として知られる1868年から1912年の中頃に行われた政府の調査によると、当時のこの島国には、6万8562か所の紙漉き工房が各地に存在し、その全ての工房で手漉き紙が生産されていた。
繊維として主に用いられていたのはコウゾ、ガンピ、ミツマタと言う3種類の木の樹皮の内層である。工房の多くは、農家の大家族の親類縁者が皆集まって、冬期だけの季節労働として営んでいた。冬は、稲の収穫が終わり、コウゾの枝を刈り取るのに最適な季節だからだ。
土地ごとに異なる技術や原料や調合の技法は、何世代もかけて苦心して磨き上げられてきた精緻な技とともに、師匠から弟子へ、つまり多くの場合は親から子へと代々伝えられてきた。
コウゾ |
ミツマタ |
ガンビ |
現代の日本では、日本製紙、王子製紙、三菱製紙と言った大企業によって、機械で商業生産される日常的な用途の紙が圧倒的に優勢であり、木のパルプも洞窟のようなコンテナ船で海外から大量に輸入されるため、手漉き紙をつくる工房は300足らずに減少し、こうした工房が生き残っていく見通しは、好意的に見ても不確かとしか言えない状況だ。
昔ながらの方法で紙を漉く優美な営みは廃れ行く危機に瀕していて、現に伝統的な手法で作られる紙の一部は、一刻も早く保護し、保存しなければならない「文化財」としての指定を政府から受けている。
最も純粋な「和紙」は(純粋さと言うのは日本人の共感を得やすいイメージだ)、職人魂を表すとともに、人間の精神性を表現する手段でもある。
日本語には「磨く」と言う動詞があり、これは「光らせる」「熟達する」「向上させる」と言う意味で、日本人が外部から入ってきた製品やアイデア、技術を自分たちのものにする才覚を指す時に良く使われる。
何百年も前に中国から入ってきた言葉や書法体系を筆頭に、後の時代のカメラや電子機器、自動車に至るまで、日本人は外国から取り入れた事物を自分たちの手で磨き上げてきた。紙漉き技術も日本を発祥の地とするものでないが、7世紀にこの地で確立したその技術は独自の生命を得て、独自の道を歩むことになった(30頁から31頁)。≫
紙垂 |
朝鮮人は、中国から宗教の教えを取り入れ、芸術や文化も吸収し、さらには中国の漢字をも取り入自国の書法体系を5世紀に確立した。6世紀になると、中国に留学して学んだ朝鮮の僧や学者が、筆、墨、質のよい紙など、中国で使われているさまざまな品物を持ち帰った。
その後、朝鮮で作られる紙は非情に高い評判を得るようになり、生産されるものの大部分が毎年、貢物として中国の皇帝に送られるようになった。
610年、朝鮮のふたりの仏教僧が日本海沿岸の地(現在の福井県)で、日本人に紙漉きの基礎を教えたことが知られている。それから、1世紀と経たないうちに、紙はこの国の至るところでつくられるようになった。
その頃、紙の主な用途は貴族や武士のぜいたく品だったが、僧が仏教の教えを書いて広めるためにも使われた。紙が世に広まっていた764年には、当時日本の女帝であった称徳天皇が国家安泰を祈念するため、紙をたくさん使わなければできないような事業を敢行した。・・(天皇は)経文を100万枚作成させ、100万基の木製の小さな三重塔に一枚ずつ納めて、国内の10の寺に奉納した・・。≫
女帝が奉納を命じた厖大な経文の数は、同じ祈りを何度も繰り返す仏教徒の修行に通じるものであり、この宗教が日本人の生活にどれほど大きな影響をおよぼしていたかを反映している、とバスベインズは言う。
「『陀羅尼』から力を得たいと願う者は、これを77回書き写し塔に奉納しなかればならない」というブッダの言葉もある、らしい。
これらの経文は、長さ約46㎝、幅約5cm、の和紙に印刷。その際、文字は木版印刷されたか、銅版印刷されたかのいずれかであろうと考えられている。その両者であると考える学者もある、ようだ。
経文は、一行5文字。約30行で印刷され、巻物仕立てになっている。紙は二重になっており、羊毛のような肌合いのものと、表面がなめらかで薄くてしっかりとした紙とで作られいる。
陀羅尼、それが入った三重塔 |
≪6年で完成した100万巻の『陀羅尼』は、作製年代が明確な、現存する最古の印刷物として認められている。サー・オーレル・スタインが中国敦煌から持ち帰った『金剛般若経』より、さらに99年も古い。
今日まで残っていることが知られているのは数百巻であり、そのほとんどは状態が劣化していが、まだ無事に木製の小塔に入っているものも多い。』
(2019年9月2日)
0 件のコメント:
コメントを投稿